四禁掟の黄昏

玖珂郡 八木 謙

はじめに
「四禁掟の黄昏」という題名は『紫禁城の黄昏』という本から拝借したものである。この本の著者はイギリス人のR.F.ジョンストン。彼は清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を勤め、溥儀の激動の生涯を記録した。映画にもなった。ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストエンペラー」(1987)である。映画ではジョンストンの役はピーター・オトールが演じた。禁城とは天子の住む場所という意味で、紫禁城は北京市街の中央に位置する。またこの『紫禁城の黄昏』が極東軍事裁判(東京裁判)に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう、という曰く付きの本である。日本語訳は何冊か出たようだが、それらの本は政治的配慮もあり1章から10章までと16章が省かれていた。近年になって全訳が出版され今回通読した次第である。1つの国が衰亡して行く様を内部に居ながら客観的に記述していて感慨深い。これに触発されたという訳でもないが、私はこの国の産科医療の衰亡して行く姿を四つの掟を通して見てみたいと思う。四つの掟とは厚生労働省によって為された、あるいは為されようとしている①看護師内診問題、②産科医療補償制度、③分娩費直接支払い制度、④医療事故調査委員会大網案の4つを指す。

掟その1、看護師内診問題
 厚生労働省医政局看護課は「内診行為は、保助看法の第三条で規定する助産であり、助産師または医師以外の者が行ってはならない」との見解を2度に渡り示した(平成14年11月14日、平成16年9月13日)。これを受けて警察は「看護師の内診は違法だ」との認識のもとに違反医療機関の摘発を行い、摘発を受けた医療機関らは廃業へと陥って行った。さらにその報道を見た産科開業医は続々と分娩を止めて行ったのである。分娩を続けて行こうとして助産師を雇いたくても助産師がいない。弱小開業医は分娩を断念するしか無かった。
 だが医師の指示下で行なう看護師の内診は真に保助看法違反に該当するだろうか。
これを検証する為にはまず法を確認しなくてはならない。保健師助産師看護師法は保健師法、助産師法、看護師法の3つの法を統合したものであると考えることができる。解り易くする為に助産師法という法を1つの独立した法として取り扱ってみる。医師法と助産師法の対比として見てゆく。
 助産師が助産を取り扱っていいという根拠になっている法は

助産師法(保健師助産師看護師)第30条 助産師でない者は、第3条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法(昭和23年法律第201号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。
同法第3条 この法律において「助産師」とは、厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、じよく婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう。

 この助産師法の3条と30条をもって助産師は助産を行ってよい事になる。
医師は医師法下で分娩を扱い、助産師は助産師法下で分娩を扱う。この両法は”and”ではなく“or”の関係にある。つまり分娩を扱うとき、どちらか一方の法が成立していればいいのである。厚生労働省の言う“助産行為は助産師または医師以外の者が行ってはならない”という表現が全ての誤解を生んだ。正しくは“助産行為は助産師法下または医師法下でなければ行なってはならない”である。
助産師は医療従事者ではない。詭弁のように聞こえるかもしれないが、医師法の枠外で行なわれる助産行為は医療ではない。助産師法下で扱われる助産は人間の正常な生理的現象を取り扱うものである。疾患を治療するという行為は含まれていない。対して柔道整復師や針灸師は極限定された医療行為をする事が法によって許されている。
これは痛みや疾患を治療する行為であるのである。では医療従事者ではない助産師がなぜ医療機関で働いてよいか。それは、

保健師助産師看護師法第31条 看護師でない者は、第5条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法又は歯科医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。
2 保健師及び助産師は、前項の規定にかかわらず、第5条に規定する業を行うことができる。
第5条 この法律において「看護師」とは、厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじよく婦に対する療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者をいう。

 この31条の2により助産師は看護師の業を行なう事ができるのである。
当院でも以前は分娩を扱っていた。従業員の中には助産師もいた。私は彼女達を助産師法下の助産師としてではなく、助産の知識を持っている優秀な看護師として扱って来た。彼女達が助産師法下にいたら私には彼女達に命令する権限がないのである。私のコントロール下に置く為には医師法下で働く看護師としてみなくてはならない。私のところでは助産師だけに任せた分娩は無い。すべての分娩に医師が立ち会った。ここには助産師法は存在しない。助産師はいても助産師法下で扱った業務は皆無で、院内の従業員の行為すべてが医師法下に置かれていた。従業員すべてと言っても掃除のおばさんや給食係りは含まない。医師法下にある医療従事者のみである。医療従事者とは助産の知識を持っている優秀な看護師と一般の看護師である。私は院内の医療従事者すべてに内診を行なわせた。違法性はない。これは看護師に認められている医療の補助としての行為なのである。
法の理解ができていない為、いたる所で不幸が起こった。中型規模の公的病院、産婦人科医は一人二人程度。助産師が足りなくなった。院長は他科の医師である。夜間陣痛発来で入院してきた全ての妊婦の診察を産婦人科医に命じた。お産で起きるのは仕方が無いとしても陣痛発来まで起きて行けとは。その病院の産婦人科は分娩を取り止めた。

掟その2、産科医療補償制度
 平成21年1月から厚生労働省主導により産科医療補償制度がスタートした。これによって訴訟なしで障害を持つ子に補償金が支払われる事になった。但し先天異常児は対象外である。「医療崩壊」の著者小林秀樹氏はこうした無過失補償制度が成功する為には次の2つの要素が不可欠であると述べている。2つの要素とは第一にこれが紛争の終点となること、第二に当事者の責任の追求とを切り離すこと、の2点である。日本の産科医療補償制度にはこの両者とも欠如している。お金を受け取る代償として裁判は起こしません、という念書を取る事を禁じた為、今回の産科医療補償制度では補償金は貰え、克つ訟権を残すという形式になった。そしてこの補償制度を通じて厚生労働省傘下の調査委員会が事故調査を行う事にもなった。結果的に当事者の責任追求が行なわれる事になろう。
 児に障害が起きた原因追求は純粋に学問的な目で検証しなければならない。そうではなく責任追及に重点をおいて走れば、障害児を出した産科医を粛清して行くのは目に見えている。そして弱小個人開業医は淘汰の方向へ向かうだろう。今からでも遅くはない厚生労働省は手を引き、この仕事は学会に任すべきである。さらにこの産科医療補償制度には致命的な欠陥がある。それはこの制度の約款第二十七条3の条文にある、

調整委員会が当該重度脳性麻痺について加入分娩機関およびその使用人等における重大な過失を認めたときは、加入分娩機関は、正当な理由がある場合を除き、前条に規定する補償金返還措置を講じなければならない。

である。
これは医療機関に重大な過失ありと調査委員会が判定を下せば患者に支払われたお金は医療機関が返済するという念書である。こんなバカな話はない。過失が有っても無くても支払うという制度だったはずである。この約款第二十七条の3は削除を要請すべきである。そして重ねて言うが、これが紛争の終点となるようにする事と当事者の責任の追求とを切り離す事を盛り込まなくてはならない。

掟その3、分娩費直接支払い制度
 平成21年10月1日より出産一時金直接支払い制度が導入された。先立つ4月妊婦健診料が市町村持ちになり、この現金収入が月遅れで入るようになったばかりである。一般診療科の先生方にとっては診療報酬が後で入って来るのは当たり前に見えるだろう。しかし産科開業医にとって急に2ヶ月間の現金収入が無くなる訳である。全国から悲鳴が起こった。貸付金制度も立ち上げられたが結局は借金の利子を今後も払い続けなくてはならない。弱小開業医は淘汰すればいいと言う厚生労働省の思惑が見えてくる。全国の産婦人科の署名運動が起こった。長妻大臣はこの声をくみ上げ完全実施は半年後とした。産科を廃業しようとした人達も一応これで首は繋がった。しかし患者からは10月から分娩で支払う金は要らないという約束だったではないか、今になって30万40万の現金を用意しろと言われても、と言う不満が沸いた。医療側と患者側との齟齬が出来てしまった。妊婦健診料は市町村が持つが、分娩費は社会保険と国民健康保険が支払う。妊婦健診料は完全に行政が支払ってくれるので心配ないが、分娩料は基金から出る。分娩時に資格消失者がいて、入院分娩料を貰い損ねたら後になって本人から貰うのは大変な事である。取りはぐれは起こるだろう。更に医療機関と基金とでこんな同意書を交わす事になった。つまり、基金が(自分達の調査不足で)資格消失者の出産育児一時金を間違って医療機関に支払ってしまった時、その後その金を返すという念書である。医療機関の目もすり抜け、基金の目もすり抜け、2ヶ月遅れで払い込まれたお金を半年後1年後でも不正が発覚したら医療機関が弁償するという事である。不正が見抜けなかったのは基金側の責任であろう。こうした制度を作るとき、制度を作った役人に責任がかからず、最終責任は末端の医療機関に被せるような文言にしておくのは彼らの常套手段である。経済的に困窮している人々のお産や医療は国が責任を持って面倒みなければならないはずである。分娩時に保険に入っていなかった事が発覚した時、遡って保険に入る手続きをして上げるとか何処からか分娩費を捻出するとかするのは国や基金の仕事である。分娩費用は妊婦健診料と同様、市町村あるいは国持ちにするのがよい。保険に入っているか否かで差別すべきものではない。たとえ税金を一銭も払っていない人でもこの国の憲法で保障する生命及び幸福を追求する権利はあるのだ。

掟その4、医療事故調査委員会大網案
 平成20年6月、この大網案が厚生労働省より発表された。医師法21条の変更である。変更しなくてはならない理由はこの21条により異状死を警察に届けた医師が業務上過失致死罪で警察からの調査対象になるのを防止する為とある。届け出先を警察ではなく、厚生労働省下の調査委員会にする。調査委員会が事故調査をし、犯罪性があるとしたもののみ警察に届ける。一見医師にとって警察の追及から救われる朗報のように見えるが、果たしてそうなるであろうか。厚生労働省の真の狙いは医療事故の届けを自省に一括し、医療界全体を我が管理下に置きたいと言う事であろう。今後は厚生労働省による強制捜査に替わるだけである。この委員会の判定に反論する機会が与えられるのだろうか?通常の裁判であればその機会はある。しかし、この判定は弾劾裁判となってしまう危険性がある。厚生労働省の基準で裁く事になるからである。
 ではもしこの制度が導入された場合、どういう症例が届出対象になるのか。つまりこの大網案で言う「医療事故死等」という用語の定義はどうなっているのか。

第2 定義
1 この法案において「医療事故死等」とは、第32の(2)の1の医療事故死等をいう。

第32の(2)の1というのは何を指すのかその文章を見てみよう。
第32(2)病院等の管理者の医療事故死等に関する届出義務等
1
病院若しくは診療所に勤務する医師が死体若しくは妊娠4月以上の死産児を検案し、又は病院若しくは診療所に勤務する歯科医師が死亡について診断して、(4)の1の基準に照らして、次の死亡又は死産(以下「医療事故死等」という。)に該当すると認めたときは、その旨を当該病院又は診療所の管理者に報告しなければならない。

 では、(4)の1の基準に該当するとは何であろうか、(4)の1を見てみる。

(4)の1、医療事故死等に該当するかどうかの基準○○大臣は、(2)の1、2及び4並びに(3)の1及び2の報告及び届出を適切にさせるため、医療事故死等に該当するかどうかの基準を定め、これを公表するものとする。

 なんと、基準は未だ決まっていないのだ。○○大臣が医療事故死等に該当するかどうかの基準をこれから定めるとある。○○大臣は大岡越前の守にやらせるのか。この大網案を作った人の頭の中はピーマンなのではなかろうか。
 基準も決まっていないのに基準に添って届けろと言う。それでいて、届けなかったときの罰則は事細かに厳重に書き込まれている。こんなもの使い物にならない。異状死の定義は法医学会のものが客観的であり、何が異状死として届出対象になるのかあるいは届出の必要がないのかが明白である。
私は現行法通り異状死の定義に入るものは全て警察に届ける、でいいと思っている。異状死を警察に届けず委員会に届けて、委員会が医師に責任が無いと判定すればそれで終わりになってしまう。これではもし犯罪が隠されていた場合、それを見逃す羽目になる。我々には犯罪を見抜く能力が備わっていない。形式的でも全てプロの目を通すべきである。
私はこの21条の下に但し書きで、

患者の死亡について、その診療に携わった医師は業務上過失致死罪に問われない。

 という1文を付けるだけでいいのではないだろうかと思っている。これは産婦人科学会も提唱している事である。1億の民が暮らせば年間100万件の死がある。それらの死のまず殆どに医師は関係する。医師は一般の人に比べ死への接触濃度は極端に高い。一般人同様の業務上過失致死罪を科すのは過酷である。これが免徐されても刑法上の殺人罪は残在するのである。医師が故意に起こしたのならこの罪で起訴する事ができる。警察も医師を起訴するなら、殺人罪をもってこれに当たるべきである。業務上過失致死罪などという安易な法を採用すべきではない。警察が医師の治療が妥当であったか否を判定する任に向かないのは当然である。警察には医療の妥当性を見抜く能力が備わっていない。
私の案が受け入れられる可能性は低いと思われる。しかしこの大網案には産婦人科医として見逃す事が出来ない重大事項がある。それは事故死としてみる対象に12週以上の流産児を含めた事である。今までの医師法21条では検案して異状死胎と認めたときであった。つまり外傷があるとか窒息させた痕があるといった嬰児が届けの対象である。今回の大網案は医師が切迫流産の治療をした後、流産してしまった症例もその治療が正しかったか否かの調査対象になる。それもそれを届けなかったら罰則を科すというものである。そして患者側がそう主張すれば強制調査の対象になるのである。何をトチ狂っているのだ、厚生労働省のバカタレが。どこまで産婦人科医を貶めようと言うのか。

結語
 4つの悪しき掟について述べてみた。世界一の水準を誇った我が国の産科医療に衰亡の兆しが見えはじめている。国が衰亡して行くとき、外敵というよりすでに内部からの崩壊が衰亡の要因の多くを占める。衰亡しかけて立ち直った国家もある。
それは彼らが危機感をもったときである。我々も封じ込まれて諦観に陥っていてはならない。危機感を糧に戦わなくてはならない。