リストバンド
『山口県医師会報令和2年1月号に掲載』
玖珂 八木 謙
昨年、令和元年10月24日(木)宇部のアクトビレッジで行われた「多数の死者を伴う大規模災害時における検視・遺族対応合同訓練」に警察医として参加した。警察、自衛隊、医師、歯科医師の4者で行う訓練である。今回で8回目の訓練となる。
雨の中の訓練であった。我々は体育館の中なので雨には濡れないが、自衛隊員は野外で合羽を着用し作業する。湖から遺体(人形)を引き上げ自衛隊のトラックに収容し体育館へ搬送する。我々は体育館内に設置された巨大モニターでリアルタイムの湖の映像を見ている。最初の遺体が運び込まれて来た。警察官が遺体を受け取り、発見された場所遺体の状況等聞き取り、記録する。そのとき驚いた光景が目に入った。なんと遺体にリストバンドを装着しているのである。訓練に使用した遺体は三体。そのすべてにリストバンドが装着された。なぜこんなことに驚いたかというとこれを提案したのが私だったのだ。前年の訓練の後の反省会で提案した。前々年の訓練は野外であった。野外での検視の訓練である。毎回条件を変えて訓練が行われる。災害で水が出ない設定とか、電気、電話が使えない設定とか。狭い施設しかない場所での検視とか、色々負荷をかける。野外訓練で遺体は遺体袋に収納され運びこまれる。発見現場で遺体袋に収容された遺体は検視の際遺体袋から出され検視台に移され裸にする。裸にされた遺体には本人識別の何のマーカーも付いていない。遺体袋の方にこの遺体の情報が紙に書かれ袋の表の透明なビニールのポケットに入れられる。しかしここは野外なのだ。空になった遺体袋が風で移動することもあるだろう、遺体袋の取り違えは起こり得る。ということは遺体の取り違えが起こるということだ。
そこで私はこういう趣旨の提案をした「私は産婦人科医なのですが、私が医者になった頃、赤ん坊の取り違いの事件がよく報道されていた。小学生、中学生になって血液型から両親が本当の親でないことが発覚した。出産した病院で記録を調べ同時期にその院内で出産した子供が本当の子である事が分かった。分娩施設内で取り違えたのだ。だがこの30~40年間赤ん坊取り違えの話は聞かない。赤ん坊の取り違いが皆無になった。それはどんな小さな産科施設でも赤ん坊に母親と同じ番号の足バンドを付けるようになったからだ。母親用の腕バンドと赤ん坊用の足バンドは最初くっついている。そして両方に同じ番号がついている。出産時まだ赤ん坊が分娩代の上に居て臍帯を切断するかしないかのときに、母親の目の前で同じ番号が付いていることを確認してもらい足バンドと腕バンドを切り離す。そしてそれらを母親と赤ん坊に付け退院まで外さない。この災害時訓練において袋から遺体を出す。そして遺体を裸にする。検視前に体に付着した土砂を水で洗い流す。この遺体には個人を識別する印がついていない。アメリカの刑事ドラマなどで刑事が遺体収容所に行き調査する場面がある。遺体が並んでいてその足には紐で板が付けられている。この板に印や番号が書かれている。車のナンバープレートと同じだ。この訓練でも袋に印をつけるのではなく遺体の足にこうした板をつけるようにしたらどうだろう。複数の遺体が同じ場所に集められるときは必要だと思う」
今回の訓練で私は2体目の遺体の検視を担当した。死亡確認、検視、指紋採取、歯科医の診察、検視結果の報告、死体検案書の作成。最後に検視官と医師からの遺族への説明も臨場感をもって実施される。体育館内は騒然としている。訓練の途中、陣頭指揮を取っていた警部補が私に話しかけてきた。お偉方の警部、警視は後ろで見学している。警部補は言う。「先生の昨年のご指摘のおかげでリストバンドを採用することになりました。有難うございました。これは全国的に注目されて来ています」「それはよかった。半年前、病理解剖で遺体を取り違えたという事件もありましたね」「あれは解剖前にリストバンドを外したことがいけなかった。今後は家族に返すまで付けておくことになったようです。多数の死者を伴う災害時の検視に於いてはリストバンドはずーと外さないということになりました。リストバンドを付けたままで火葬にしてもいい。灰になるだけですから」
死ぬまで離さない、ではなく死んでも離さない。でもなくて死んでから灰になるまで外さないか。
畑違いの者の意見が役に立つことがあるものだ。全国から注目されているというからやがて全国的に広がって行くのだろう。山口県警が最初に取り入れてくれたことは嬉しかった。病理解剖で遺体の取り違いがあったのだから早晩警察にも取り入れられたとは思うが。
この訓練の2日後私の娘が東京で出産した(写真)。
これなら取り違えは起こらない。