山口県医師会報令和5年11月号「医師の声」に掲載
法の番人か?権力の侍女か?というこの表題は、西川伸一著「これでわかった内閣法制局」という本のサブタイトルとして使われている文言である。
内閣法制局とは何か。日本の行政機関のひとつで内閣に置かれ、行政府内における法令案の審査や法制に関する調査などを所管する法律の専門家集団である。法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見をのべること。とある。内閣がやろうとしている事案が日本の現行法と矛盾していないか、徹底的に国中の法を読み込む。
対して厚生労働省には法律の専門家はいない。で、時々法に反する判定をする。例えば産婦人科領域では看護師の内診は違法だとか、人工妊娠中絶のときDV夫なら夫の同意はいらないとか。法を無視する判定だ。判定?判定とはなんだ。司法でもないのに行政が判定などできるのか。
内閣法制局は違う。内閣法制局は法律のプロの集団である。今、政府がやろうとしているマイナ保険証制度を内閣法制局はどうとらえるか。
内閣法制局はこう言うであろう「デジタル担当大臣そして総理、政府がやろうとしているマイナ保険証の導入は法的に不可です。マイナカードの普及は可能です。しかしこれを保険証と紐付けることは法的に出来ません。何故なら医師には刑法上の守秘義務があります」
カルテをデジタル化してラインでデジタル庁に繋ぐ。これを医師にやらせる。医師の守秘義務は刑法上にあるから、これに抵触すれば懲役もありえる。大臣の権限でその懲役は免除する。よって内閣は医師に法を犯すことを強制できるのだ。との考え方は不遜である。医師達は従わないでしょう。個人のお金の流れをデジタル化して政府が把握するのはいい。しかし個人の健康状態を政府が把握・管理するのはプライバシーの侵害となる。
与党も野党もマスコミもマイナ保険証が個人情報保護法に合致しているかについてだけ議論している。そこには刑法上の医師の守秘義務についての議論がまったく抜けている。
デジタル庁のマイナンバー保険証に関する説明は以下のようになっている。
①万全のセキュリティで支援します
②マイナンバーを利用して個人情報を見ることができるのは、それぞれの手続きを行う行政職員しかおりませんのでご安心ください。
③ちなみに、行政職員であっても、見ることができるのは自分の担当する業務に関する個人情報のみで、当該業務に関係のない情報は、行政職員であっても見ることができない仕組みとなっています。
以上個人情報保護法はクリアしていますと言っている。しかし刑法上の医師の守秘義務がクリア出来ていると言えるのだろうか。すでにそれぞれの手続きを行う行政職員には情報が洩れているのである。この時点で医師の守秘義務は破られていると言えないか。
個人情報保護法をクリア出来ているとしても、刑法上の医師の守秘義務はクリア出来ているのかについて、以下の3点を検証してみたい。①個人情報保護法を守っていることは医師の守秘義務を守っていることの十分条件か。②医師の守秘義務を守っていることは個人情報保護法を守っていることの十分条件か。③個人情報保護法を守っていることは医師の守秘義務を守っていることの必要十分条件といえるか。①、③は間違い。まとめると医師の守秘義務を守っていることは個人情報保護法を守っていることの十分条件である。これは十分条件であって必要十分条件ではない。つまり守秘義務を守っていることと個人情報保護法を守っていることは同値ではない。同値ではないと言う事の意味を考えてみたい。では必要条件、十分条件、必要十分条件について説明する。まず必要十分条件。これを同値と言った。例えば2等角三角形と2等辺三角形は言葉は違うが同じものを表している。2等角三角形であることは2等辺三角形であることの必要十分条件である。同値である。これと異なり、個人情報保護法を守っていることと守秘義務を守っていることは同値ではない。ところがこれを同値だと錯覚している。そこが問題なのだ。次に十分条件の例を示す。日本人であることは人間であることの十分条件である。私は日本猿でもないし日本脳炎ウイルスでもない。私は人間である。そして私は日本人である。人間であることは日本人であることの必要条件である。日本人であることは人間であることの十分条件である。日本人であることが証明できていれば人間であることを証明する必要は無い。刑法上の守秘義務を守っていることは個人情報保護法を守っていることの十分条件である。ならば刑法上の守秘義務を守っていれば個人情報保護法は守られている。逆に個人情報保護法が守られていれば医師の守秘義務は守られていると言えるか否か。言えない。個人情報保護法がクリア出来ても、医師の守秘義務がクリア出来ない場合もある。
その例を一つ挙げよう。ある有名人が成田空港に降り立つ。マスコミに報道され、動画も流れる。それは個人情報保護法違反ではない。事実なのだ。しかし彼が何処で誰と合って、どんな密約をしたのかを暴露するのは個人情報保護法違反となる。では、ある有名女優が産婦人科医の私の診療所に来たとしよう。診療内容を何も洩らさなくとも、彼女が私の診療所に来たという事を私が洩らせば医師の守秘義務違反である。診察室に入って来たとき、診療契約が結ばれている。その診療契約には医師の守秘義務が含まれている。このように個人情報保護法が守られていても医師の守秘義務違反になることはある。医師は患者が打ち明けた患者の秘密は決して他人に漏洩してはならない。
教会で神父は懺悔(confession)を受ける。受洗者は神父に罪を告白して赦しを受ける。中には漏れたら刑務所行きになる告白もある。神父は絶対に秘密を守る。このコンフェッションルームとデジタル庁をラインで繋いだとする。デジタル庁のたった一人の役人しかこれを聞かなかったとしてもこの告解はすでに外に漏れたことになる。神父になったとき信者の告解の内容は絶対に洩らさないと神に誓ったのだ。外に漏れる可能性があり正直な告解が出来なければ信者は告解をしなくなる。そうなると信者の魂は救われない。コンフェッションルームとデジタル庁をラインで繋いだとき神父は神との誓いを破り、神父を辞めなくてはならない。
医師は医師になったときヒポクラテスの誓いを立てる。その誓いの中には患者の秘密を守るという一文がある。その誓いを破ったとき医師は医師を辞めなくてはならない。