2016年1月1日 玖珂 八木 謙
善きサマリア人法について、ある高名な学者がこう言った。「善意で行ったサマリア人をその行為の結果が悪かったということで裁いてはいけませんとイエスは言ったのです。これを受けて欧米ではこの法が作られました」
いやイエスはそんなこと言っていません。聖書(ルカ伝 第10章-25)に書いてあるのはこうです。イエスは神への愛と隣人への愛について説いていた。律法学者がでは隣人とは誰かと尋ねた。これに対しイエスは以下のたとえ話をした。
旅人が強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。祭司、レビ人といった神殿にかかわる人々は旅人を助けずに道の反対側を通り過ぎて行った。そこを通りかかったサマリア人は、この旅人の傷の手当をし自分の家畜に乗せて宿屋まで運び、宿屋に怪我人の世話を頼みお金を渡して旅立った。お金が足りなければ旅の帰りに立ち寄ったときに払うからと言い残した。隣人は誰かもう分かりましたね。
それだけです。結果が悪ければサマリア人を裁くとか裁かないという話は聖書のどこにも出て来ない。そんな重箱の隅をつつくような理窟はどうでもいいとおっしゃるかもしれない。だがそうも行かないのです。この高名な学者は続けてこう言う。日本は儒教の国であり、儒教には間違いを犯したものは罰するという考えがある。この考えを解消する為にも日本に新しい法が必要である。それが今回医療法を改正して作成された医療事故調査制度であると。いや儒教にもそんな考え方はありませんよ。むしろ「義を見てせざるは勇無きなり」とあるようにたとえ自分の身が危険に曝されようとも義の為に勇敢に戦えと言っている。病人を見てほっておくのは義に反するのだぞと。これはサマリア人のように行動せよというイエスとおなじことを言っている。善きサマリア人法と儒教は対蹠的な関係にあるのではない。
この高名な学者はこの法は欧米にあると言ったが、欧州にはこの法はない。東洋にもない。この法があるのはアメリカとカナダです。ではなぜ欧州東洋になくてアメリカだけなのか。その答えは歴史にあります。結局新興国アメリカには中世が欠落しているという事です。騎士道精神、武士道精神がない。惻隠の情がない。ドライに自己を主張する情け容赦のない民主主義の国です。自分に不利益がかかれば徹底的に相手を叩く。裁判の多い訴訟だらけの国となってしまった。だがアメリカは自分の欠点に気付いた。法を作り善意で行った行為は裁かないようにしようとした。この法により人心の荒廃を防ごうとしたのです。
ではこの学者先生達が医療法を改正して作った医療事故調査制度の法文を見てみましょう。この法で扱う「医療事故」という用語の定義は「提供した医療に起因する死」とされている。これはどういうことか。患者が死んだ場合、医療を提供していなければ罪は問わないということになる。死にそうな人がいたら祭司やレビ人のように避けて通れ。下手に関りあって結果が悪ければ調査し裁くぞ。今回の我国で作られた法は善きサマリア人法と真逆の方向を向いている。
以下、小室直樹氏の言を借ります。医療裁判においては挙証責任は医師側にある。紛争では挙証責任が決め手となる。刑事裁判においては挙証責任は原告である検察にある。例えば容疑者のアリバイは完全に崩された。だが、検事による犯罪の証明も不完全であった。この場合判決は5分5分か、あるいは1対9で求刑の1割くらいの刑になるか。否。完全に被告の勝、無罪である。犯罪の証明の為に使用される証拠は、どんな小さな欠陥があっても、それは不完全なものと見做される。99.9%までコイツがやったと誰の目にも映る。しかし0.1%不確かな事が残る。つまりやってない可能性もある。これは99.9対0.1で検事の勝か。いやそうはならない、近代刑事裁判では0対100で被告の完勝。検事の完敗である。逆に、もし挙証責任が被告にあるとされたらどうなるか。99.9%のアリバイを証明しても0.1%の疑問が残れば有罪になってしまう。こんなべらぼうなことはない。だが、アメリカでは医療裁判と公害裁判は挙証責任を医療側・会社側にあるとした。医療過誤(例、手術)において医師と患者は対等ではない。医者は、いわば絶対者であり、患者はなすがままにされるほかない。このうえなく弱いものである。ゆえに医療過誤の有無をめぐって紛争がおきたときは、医者が(なかったことを)証明しなくてはならない。アメリカ人はこう考えて挙証責任を医者に負わせたのである。その結果起こったことはもうご存知のとおりです。「有ること無いことをめぐって」ではない。とてもありそうでないことを言いたててまで医療裁判が起こされるようになった。医者は大恐慌。医療過誤賠償金が払えなくて破産する医者が続出した。産婦人科医はお産の取り扱いを止め、出産できる場所がない町が出て来た(著者)。ここにきてアメリカ人も挙証責任を医者にだけ押し付けることは間違いであったのではないかと考えはじめるようになった。小室直樹著「日本国民に告ぐ(副題、誇りなき国家は滅亡する)」p.87 WAC社2005年より。
日本もアメリカに踏襲して挙証責任を医者に負わせる考え方を取ったのです。その弊害についての日本の反省は寡聞にして聞きません。
医療事故調査制度の話に戻りましょう。何が調査の対象になるのか。
法の改正による届けが必要とされる患者の死は、以下3つのどれにも該当しないものと規定された。①主治医が家族に死が予期されると説明していたもの。②主治医が死が予期されるとカルテに記録していたもの。③病院の管理者が主治医は死を予期していたと認めたもの。この3つ以外は全部届けなければならない。結局これは医師側に完璧なアリバイの提出を要請したことになる。万事休すだ。挙証責任を負わされ、完璧なアリバイを求められた。起訴され敗訴に陥る医者が続出するだろう。
この法の軍門に下り保身医療の道を走るか、それとも毅然としてこの法に立ち向かうか。ここで陽明学の出番である。陽明学は危険な思想だと見られている。だがそんなことはない。陽明学は儒教より派生した。陽明学の特質は行動に出るということである。儒者は学問を修め徳を高めれば良しとしたのに対し、その学問を行動に移してこそ意義があるとした。医学と同じではないか。いくら勉強して知識を得たからといってもそれを現場で活かさなければ意味がない。行動あるのみだ。この王陽明の生き方に多くの日本人が共鳴したのである。陽明学に触れ精神を純化させることは意味があるであろう。しかしそんな七面倒くさいことを考えなくとも「義を見てせざるは勇無きなり」の一言でいい。死にそうな人を見て助けようとするのは医者の本能であろう。本能のままに行動すればいいのだ。勇無きところに義はない。義無きところに仁はない。仁無き医は単なる商である。
この新法の毒牙に最も曝されやすいのは志を持って医者になった若者達であろう。義の命ずるままに行動を起こした人達を医師会、学会、医会、大学は一枚岩になって護って行かなければならない。
2016年1月号山口県医師会報掲載