日大同窓生新聞 2005年11月
48回生 八木 謙 (山口県)
郷土の資料を調べていたときの事でした。松下村塾の塾生達がキセルを折って禁煙を誓い合ったという記載があり、これは最古の禁煙啓蒙書ではないだろうかと思いその出典を探していたとき、偶然別のページからこの文章が目に入って来たのです。当時の医者を批判したものかと思いましたが文全体を読むとそうでもありません。以下解説してみます。
「諂屈」 媚び、へつらう(諂う)、言いなりになる。
溝三朗の説(こうざぶろうのせつ)吉田松陰記「幽室文稿」安政四年(1857)
松下村塾に商家の息子で自他共に優秀と認める少年がいた。優秀ではあったが、世俗的な名誉欲に傾倒する性格がみられた。松蔭はこれを快く思っていなかった。だがそのままにしておいた。ある夜講読が終わった後で少年は前に進み出て言った。「僕、商をやめて医にならんと欲す、如何」。余曰く「医となって何をかを為す」。曰く「商たるを喜ばず」。では何故商人になるのが嫌なのかと聞くと、「商人は富貴の人に諂屈しなければならない」と言う。そこで松蔭は言う「諂し、屈せんば、商も不可なり、医も不可なり。今の医の諂屈なる事、更に商より甚だし。しかれども君子は渇すとも盗水を飲まず、志士は窮すれど溝壑を忘れず。飲まず、忘れずんば医も為すべく、商も為すべし」
(注)「溝壑(こうがく)」とは孟子の中に出てくる「志士は窮すとも溝壑を忘れず」という言葉で、志士は道義を守ろうとすれば貧窮に陥りがちで、死んでも棺桶さえなく、遺体が溝や谷に捨てられる事くらい常に覚悟している。という意味で溝と壑(谷)を指す。
松蔭の言は続く、君の家は裕福で骨董を扱っている。その多くの古書の中に坐し、商い、勉学すれば渇することも窮することもない。冨を以って人を恵むごとく学を以って人を教えるのだ。もし損をして売って生活が困窮することになっても盗水を飲まず、溝壑を満たしていたなら、それは商の道を外れたことにはならない。少年は松蔭の言わんとする事を理解した。松蔭は少年に溝壑の溝を取って溝三朗という名を付けた。
お話はこういう事なのですが、「今の医の諂屈なる事」という一言が「今の現在の医」と言われているように聞こえて来ます。これは百五十年前の人からとんでもない命題を与えられてしまった。診療もやもすれば商に傾きそうになる。また診療以外でも様々な局面で判断を迫られるとき、媚びない屈しないという事を貫くこと、これが自分を見失わない為に必要なのだと勇気づけられた思いがするのです。