「死」の定義(富山県外科部長呼吸器外し事件)

八木 謙

「死」という用語の定義は、人が息を引き取った時を言うのか、心臓の動きが止まった時を言うのか、それとも脳の機能が止まった時か、はたまた体内の細胞の最後の一つでも活動があるうちはまだ生きていると言うのか。広辞林によると「死」とは「生命が尽きること、生活反応がまったく止まる事」とある。

 先日来、富山県の病院外科部長が患者7人の生命維持装置をはずし死亡させた。この医師を殺人容疑で地検に書類送検した。と報道が続いている。患者本人の意思の表示がないこと、家族の同意も口頭によるもので書類に同意のサインがないことが問題だとされた。

 しかし脳死で自発呼吸のない人の人工呼吸を停止する事が殺人なら、心臓の止まった人の心マッサージを医師が止めたとき、その医師は殺人を犯したという理屈になる。

 一方、この国での脳死の人からの臓器提供があまり進まないとして本人の意思表示がない場合でも家族の同意があればドナーにしようという声が上がって来ている。我が国では死の定義の確定したものがない。法的に死が認められるのは医師が死亡診断書あるいは死体検案書を作成した時である。その他の何者も法的に死を定める事は出来ない。

 「死」の定義はいくつかあるだろう。だが医師が脳死と診断した時、それも「死」と解釈していいのではなかろうか。この国は脳死の人からの臓器移植を承認したのである。その同じ国で脳死の人の人工呼吸を停止した事が犯罪にあたるとするのは理論的にすじが通らない。脳死の人の人工呼吸を停止することが違法なら脳死の人からの臓器を取り出す事も違法である。脳死の人からの臓器を取り出す事が合法なら脳死の人の人工呼吸器を取り外す事も合法であろう。

 家族から「心臓の動いているうちは死なせないでくれ、1分1秒でも長く」という依頼があれば呼吸器を止める医者はいない。しかし家族から「先生もう充分です。父もよくこれまで頑張りました。これまでにして下さい」と依頼があれば「そうですか、それでよろしいですか」と確認を取って呼吸器を止めてもいいと思う。家族にそう依頼されても「いや、今呼吸器を外す事は出来ません。この人はまだ回復する可能性があるのです。今しばらく治療を続けさせて下さい」と依頼を拒否する場合もあるだろう。そしてそれが時が経って「お父さんはもう2度と目覚める事はないと判明しました。脳死の状態となったのです」と告げる事になるかもしれない。だがそれはそれでいいのである。

次ぎに書面での意思の確認だが、こういう時に家族から意思の確認を書面で取れというのはどうかと思う。「それでいいのですね」という問いに「諾」と頷いてもらうだけでいいのではないだろうか。家族の心情を考えるとそこで『父、誰々の呼吸維持装置を外す事を要請します。署名、捺印』。「署名が無ければ外せません」そんな野暮な事をするんじゃないと言いたい。そんな事を要求するのは唯、医師の保身に過ぎないのだ。この外科部長はそのあたりの人間の心の機微をよく心得ている人だと思う。こうなってからも一切の言い訳がましい事を述べていないのもその人の徳と言ったものが伝わって来るのである。こういう医師を罪に落としてはならない。

 ただ一つ、脳死の診断基準は明確なものを設けておかなければいけない。学会倫理委員会が未だ作っていないのなら、個々の病院内での内務規定でそれを作らなくてはならない。そこで脳死の判定は複数の医師の診断がいるとかその他の規定を設ける。医師がその規定を破ったならそれは内務規定違反である。それが無いのに人を裁こうとする方が間違っている。