八木クリニック院長 八木 謙
入学する前の年、全国学生剣道大会で日大が優勝した。テレビで見ていた。日大に憧れた。入学のとき荷物は郵送し剣道防具の入った袋と竹刀だけ担いで岩国駅から列車に乗った。るんるんの剣道少年であった。大学に行って守衛さんに剣道部はどこにありますかと聞くとすぐその裏にあるという。医学部の運動部と本部の運動部とは別々だったのだ。君が八木君かと先輩が声をかけてきた。有段者が入学してきたと分かってた。6年間の剣道部生活の始まりである。何年生のときだったか、オール日大の剣道大会で個人優勝した。本部の剣道専門の部員以外の大会だったが格は高いものだ。これを聞いた生化学小林茂三郎教授が喜んで特別に学部長名入りの表彰状を作って下さった。運動部は精神も鍛えなくてはならないということで下宿で一緒だった野球部の先輩と奈良の禅寺で合宿した。座っていても何もわからぬ。座禅の合間に裏庭で木刀を振っているときの方がよほど精神にいい。武士たるもの茶の心得くらいなくてはならぬと剣道部同級生の小口義夫君と茶道の師匠のところへ入門した。お手前の洗練された無駄のないうごき、しかも淀まない。一挙一動に精神を集中する。後の私の手術作法の原点となった。というのは言い過ぎである。山岳部の合宿に連れて行って貰ったこともあった。山から帰ってくると下宿のおばさんに、まあ逞しくなってと言われて一端の山男になった気でいた。ナルシストなのだ。運動部は剣道部だったが、文化部は自動車部に属した。鴨下一郎君らが中心となって小型車数台で学生だけでシルクロードを走破しようというプロジェクトを立てていた。部員達は車提供会社やスポンサー探しに奔走した。自動車部部長の小林茂三郎教授もおおいに乗り気だった。結局実現しなかったが壮大な夢だった。鴨下君とふたりで近畿から山陰への自動車旅行をしたこともある。貧乏旅行で野宿したり自動車部の同級生の家に泊まらせてもらったりした。息子本人がいないのに友達だという事で泊めてくれるという学生に寛容な時代だった。自動車ラリーにも出場した。私はナビゲーターを務めた。チェックポイントを通過するのが早すぎても遅すぎていけない。車に積み込んだ手動の計算機で通過距離、経過時間から今現在の理想的な速度を瞬時に割出す。手廻し計算機が追い付かない。暗算で適当な数字をだす。この私の適当な計算がけっこううまくいくのだ。医者になってからもその手でやってる。大学5年のおわり鴨下君は結婚した。仲人は小林茂三郎教授夫妻。その1年後卒業と同時に私も結婚した。仲人は小林茂三郎教授夫妻。司会は鴨下君がやってくれた。結婚した相手は小林茂三郎教授の後を継いで自動車部の部長であった微生物学山口康夫教授の娘だ。友人達は、剣道部で得たものインキンタムシ、自動車部で得たもの嫁さんと揶揄した。
(48回生)