八木 謙
Ⅰ、県医師会は財産を寄付し身軽になり公益法人になって頂きたい。
古事記に黄泉の国から帰還したイザナキノカミは黄泉の国の汚れを落とすために禊を行なったとあります。災害の多いこの列島に在住した我々の祖先は生きるためこの禊という慣習を身に付けたのでしょう。良い神も悪い神も崇め恐れ悪い神が怒ったときは我々の行いに罰せられるような忌み事があったのだとして身を清めそれぞれの我欲を捨て共同体としての公益を図り困難を乗り越えて行きました。だからこそこの日本という国が存続して来たのです。その知恵はこの禊という行いにあります。公共精神と言ってもいいでしょう。未曾有の災害に合い、(いやこれは未曾有ではありません。過去我々の祖先が何度も経験し乗り越えてきた事です)今求められているのは国民的自覚です。自覚は反省を伴います。石原知事は今回の災害を「天罰」と言い、「これを機にアカを洗い流せ」と言ってマスコミに叩かれました。しかし彼の言っている事は正しい。この考え方は古来の日本人からすれば当然の思考なのです。災害を機に精神の浄化を図り、その力がこの国の再生の基となっています。被災地にはまだまだ金がいります。禊を行なうという事は身を削ぐという事です。山口県医師会が公益法人になれないのは遊休財産が多すぎる為であると聞きました。贅肉が付き過ぎてハードルをまたげないとは恥ずかしい事ではありませんか。県医師会に貯まっている財産を被災地に差し出して欲しい。何年かかけてこの財産を処理し、いずれ公益法人を目指すというお考え方のようですが、それは違います。金を吐き出すのは今です。義捐金というのは金を捨てるという事ではありません。現場に金をつぎ込むという事です。そのつぎ込んだ金は廻り回ってまた帰って来ます。そういうしくみになっているのです。先の神話も禊を行なったそのアカから色々なものが生まれています。これは再生なのです。いけないのは金を滞らせる事です。
Ⅱ、次に産婦人科として県医師会に公益法人になってもらいたい理由を述べて行きたいと思います。これには産婦人科固有の事情があります。
県医師会が公益法人の資格をとれないと、県医師会は母体保護法指定医の指定権を失う事になります。医療に関する各種資格は厚生労働大臣から交付されています。医師の資格、看護師の資格、臨床放射線技師の資格等々です。ただ母体保護法指定医資格だけは特殊でこれは民間団体である都道府県医師会から都道府県医師会長命で発行されています。このような指定の例は他にありません。この指定権は母体保護法の中に規定されています。さてその指定権に関する法の文言ですが、平成20年以前は「母体保護法第14条、都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」でした。それが平成20年にこの”社団法人たる”という文言が”公益社団法人たる”に書き改められました。新公益法人法制度は平成20年発足から暫定5年の平成25年から効力を発します。つまり平成25年に公益法人でない山口県医師会は母体保護法指定医の指定権を失うことになります。山口県は母体保護法指定医の指定及びその更新が出来ない空白の地帯となるのです。それは困ります。なら平成20年以前の法に戻せばいい訳なのですが、法を元に戻す事は頑として厚生労働省は応じない姿勢です。
本題に入る前にここでちょっと数年前の看護師内診事件の事を述べておきます。厚生労働省は平成14年11月14日と平成16年9月13日に医療機関における看護師の内診は違法であるとの見解を出しました。これを受けて警察は看護師の内診は違法だとの認識のもとにそれを行なっている医療機関に捜査の手を出しました。何人かが検挙され、ある者は罰金刑に処せられ、刑を免れる条件で医院を閉院させられた者もいます。閉院に追い込まれた老院長はその後医師免許も返納しています。これらの結果医師一人で看護師相手に分娩を取り扱って来た弱小個人産婦人科開業医達はお産から手を引いて行きました。行き場を失った妊婦達はこの時お産難民として話題になったのはご存知の事と思います。その後患者達は複数医師と助産師を多く抱える大病院へ移って行きました。集約化が成功したのです。だが周産期医療世界一になったこの国の産科医療を支えて来たのはそうした地方で頑張って来た個人開業産婦人科医ではなかったのか。彼らは無残にも潰されてしまいました。看護師内診は違法であるとしたこの厚生労働省の法解釈は間違っています。警察検察は厚生労働省の言う事に間違いがあるはずがないと思っていますが、これは明らかに間違った法解釈でした。違法でないは拙著日本医事新報2006年10月14日号「看護師の内診は違法か」に示してあります。
しかし結果的に我々は厚生労働省のゴリ押しに負けたのです。泣き寝入りです。そして今度は厚生労働省は母体保護法の管理を自らの手中に収めようと画策しています。その為、母体保護法の文面を平成20年以前に戻さないといゴリ押しに出ているのです。今度は負けてはなりません。
さて日本医師会や日本産婦人科医会は日本医師会にその権限を移すあるいは日本産婦人科医会にその権限を移すような法改正をしたいとして国に要望を出しているようです。しかしそんな要望に厚生労働省が応じる訳がないでしょう。厚生労働省としては自分の所にその権限を持って行きたいのです。この文章をお読みになっている先生方もこの資格は厚生労働大臣から交付される方が自然なのではないかとお考えの事だと思います。だが本当にそれでいいか考えてみたいと思います。
ここで現行の母体保護法指定医の指定権を県医師会が持った経緯を説明しておきます。母体保護法の前身である旧優生保護法が制定されたのは昭和23年日本が米軍の占領下にあったときです。GHQはこの優生を保護する、裏返せば劣勢の種を絶滅する、という思想を内蔵する法を日本政府に任せておくのは危ないと考えたのでしょう。そこで地方医師会にこの法の施行を任せた。医師なら安全であろうと考えたのです。そしてそれが母体保護法に受け継がれ現在に至っています。
当時の優生保護法は本人またはその配偶者に精神病、頼病、遺伝的奇形がありその劣勢遺伝子が継続されていくのを防ぐという考えの基にその人物の在住する市町村長が人工妊娠中絶の判定を下す法文になっていました。これは本人の意向に係らず強制的に中絶及び不妊手術が行われるものです。ただその決定が出されて2週間以内なら本人らの不服申請が受け付けられ、再審査が行なわれるという法文になっています。中絶施行の判定を下すのは市町村長であり、その手術を実行するのは地元県医師会から認定された優生保護法指定医なのです。その他、経済的理由での本人の希望により優生保護法指定医がそれを行いました。
これを精神保健指定医と比較してみます。精神保健指定医は厚生労働大臣によりその認定を受け、指定医の判断により強制入院及び強制身体拘束を行なう事ができるとなっています。優生保護法指定医と類似はしていますが優生保護法指定医には患者本人の意思に逆らい強制的にその行為を行う権限がありません。強制的にその行為を行う決定権を持つのは市町村長です。この両指定医の違いを頭に入れておいてもらい次の論に移ります。
現在の母体保護法では市町村長の強制中絶は削除されました。現存する中絶理由のは以下2つのみです。
1.妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
2.暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
この2項目だけに絞られました。
つまり強姦以外は”母体の健康を著しく害するおそれのあるもの”でなくてはなりません。経済的理由にしてもその困窮度が酷く妊娠の継続が健康を著しく害するおそれのあるものでなくてはならない。現在の日本の妊婦にそのような状況が起こる事はまずあり得ません。つまりは医学的適用外の中絶は認めないという事です。だが現状では健康な妊婦の正常な妊娠もこの手術が行なわれています。これを法的にどう説明するか。「望まない妊娠を継続することが妊婦の精神身体に悪影響を与える」とかなりの拡大解釈をしてこの違法性を免れているのが実情です。しかしこんな言い訳が公の裁判の場で通用するとは思えません。違法中絶と言われたらそれまでです。ここにこの法の欠陥があるのです。社会的適用でやってくれと言いながら医学的適用しか許さない。
法が書き変えられ市町村長の強制中絶が廃止されたとき、精神保健指定医と同様に母体保護法指定医に中絶の決定権を全て任すとした法文にしなくてはならなかったのです。精神保健法の文面をそのまま拝借し「母体保護法指定医は厚生労働大臣によりその認定を受け、指定医の判断により中絶手術を行なう事ができる」としておけばよかった。”母体の健康を著しく害するおそれのあるもの”という語句を削除してあればよかったのです。ここまで指定医に強大な権限委譲が行なわれていれば指定医の判定に誰も文句を付ける事は出来ません。こうなっていれば指定権が県医師会長でなく厚生労働大臣にあってもよかったのです。
しかし現状はそうなっていない。今の法では母体保護法指定医にそれだけの権限がありません。母体保護法指定医は中絶手術を行う為の必要条件ではあるけど充分条件ではない。中絶の条件を満たす為には母体保護法14条を満足させていなくてはならない。ではこの母体保護法を管理しているのは誰でしょうか。厚生労働大臣ではなく県医師会長県です。実際には県医師会長から委任された母体保護法指定医審査検討委員会がこの任にあたっています。この委員会は山口県医師会から1名、山口産科婦人科学会から3名、日本産婦人科医会山口県支部から3名の計7名より構成されています。産婦人科医会とは母体保護法指定医の集まりで、旧名称は日母と言いました。ほとんどの産婦人科医はこの医会と学会の双方に所属しています。という事は7名中少なくとも6名は産婦人科医である委員会がこの法の管理を行なっていることになります。その委員会が会員に対し「中絶の適用はちゃんと法を守って行って下さいね」と言い、会員は「ハイ、分かりました」と言っているから法に欠陥があっても成り立っているのです。この委員会を構成する人間もこの手術を行なっている母体保護法指定医なのですから。中絶手術報告書は毎月指定医から医会支部に送られ委員会で法に適合した手術であったか確認された後集計して各所属保険所に報告されています。これら手術に違法性はなかったという事を委員会が証明した形になっているのです。
さてこの法の管理者が厚生労働省に移行したらどうなるでしょうか。厚生労働省が法を文面通り解釈し、違法中絶は禁止するという指令を出したなら、警察は違法中絶を行った医療機関に捜査の手を出すかもしれない。警察の捜査が入らなくとも厚生労働省がそのような方向性を出しただけで産婦人科医は中絶手術を止めるでしょう。看護師内診問題のときは違法ではない事を違法と言われたのだからまだ反論の余地はありました。しかし違法中絶は本当に違法なのですからぐうの音もでない。産婦人科医はこの手術を止めざるを得なくなる。では大病院にこの手術が集約化するでしょうか。いや大病院ほどこの手術の適用に厳格なのです。どこも手術を引き受けるところがなくなる。そうするとどうなるか。闇中絶が横行しこの法が制定される前の戦後の混乱期に舞い戻りです。更に懸念されるのはRU486やプレグランディンという薬剤の存在です。RU486は日本では承認されていない経口妊娠中絶薬で、プレグランディンは中期中絶用に開発された膣座薬で母体保護法指定医により麻薬並みの厳重な管理が行われています。いま巷には出回っていませんが、日本で売れるとなれば海外からネットで流入してくる可能性が十分あります。一歩使い方を間違えれば大変危険なものです。厚生労働省がそんな患者か困るような事はしないだろうと考えるのは早計です。看護師内診事件の例があります。机の上でこれは違法だと判断すれば現場の事情などお構いなく正義の鉄拳を下すでしょう。
ではそのような事態にならない為に法を改正する必要があるでしょうか。考えられる法改正の1つは先に述べたように精神保健指定医と同様に母体保護法指定医に全権限を与える法にすることです。もう1つは女性に産む権利産まない権利を与えるという法にすることです。ただ両法改正ともあまりよろしくありません。前者はいいようにも見えます。しかしその指定医が全権限を持った場合、医師法19条との競合が起こって来ます。診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならないという法です。患者に中絶手術を要請された場合医師は断る事が出来なくなる。今の法のままであれば、あまりに患者の自己中心的な要求に対してはそれは法で禁じられていると断る事が出来るのです。今のこの法の方が我々には使いやす。もう1つの女性に産む産まないを選ぶ権利を与えるという法改正ですが、現実がそのように行なわれているのだから法もそのように書き換えればいいではないかという考え方もあるでしょう。しかしそれは刑法上の堕胎罪という法文を死文化する事になります。堕胎罪という法は殺人罪や傷害罪に並ぶ崇高な法です。レイプは別として通常の男女の営みから生じた妊娠はこれを堕胎してはならない。それは法に触れるのだという認識は持つべきです。「女性には中絶手術を受ける権利がある」と声高々に訴える風潮は避けるべきです。手術を受ける女性も手術を行なう医師もひょっとしたら法に触れているかもしれないぞという気持ちがみだりにこの手術を行わないという抑制力になっています。法はこのままでいいのです。ただこの法は今まで述べて来たようにそれをうまく使いこなす技がいります。到底この技は厚生労働省は持ち得ないでしょう。厚生労働省には手に余る法であるから専門科に任せるのがいいのです。この法の管理を国ではなく地域医師会に任せたGHQの判断は賢明でした。何の不正な事も起こらず混乱も起こらず医師達がよく管理して来ました。このままで行くべきです。法の文面の語句を”公益社団法人”から元の”社団法人”に戻すだけでこの問題は解決します。しかし厚生労働省は応じないでしょう。厚生労働省は今がこの権限を取り戻す千載一遇のチャンスだと考えていることは間違いないのです。そう考えるのは医療を管理しているという自負を持つ厚生労働省にとれば当然の帰納なのです。しかしこの法は彼ら役人には手に余る。国がしゃしゃり出て判断を誤り事を重大化してしまう事は今度の原発事故でもみられました。専門家に任すべきなのです。ただ厚生労働省は聞く耳をもたない。厚生労働省が法の文面を元に戻すことを頑なに拒んでいる今、県医師会が公益社団法人化するしかありません。山口県医師会には山口県医師会がこの地区の産婦人科医とこの地区の産婦人科患者を保護しているという自覚とプライドを持ち続けて下さる事を庶幾うばかりです。