八木 謙
広尾事件と大野事件での告発を契機に医師法二十一条の改正が叫ばれている。山口県医師会報の今月の視点でも「医師法二十一条の改正と医療安全調査会設置法案大網(仮称)」と題して理事の先生より改正の必要性が説明された。広尾事件と大野事件、これは同じ医師法二十一条違反の罪状でも一方は有罪、一方は無罪の判決となった対照的な事例である。平成十六年、広尾事件の際最高裁の下した判決は異状死届けとは「検案して死因等に異状があると認めたときは、そのことを警察署に届け出るもの」であるとし、本件はこれに該当するとした。
一方昨年八月地裁が下した大野事件では医師法二十一条における異状死の趣旨とは「警察官が犯罪捜査の端緒とする、緊急に被害の拡大防止措置を講じるなど社会防衛を図ることを可能とする」とし、本件はこれに該当しないとした。
一般的な見方は、今回無罪になったのだからといって今までの状態でよいとは言えない。これは検察が上告しなかったからそうなったのであって、もし上告し最高裁まで行けば有罪の判決が出たかもしれない。したがって、この最高裁判決を無効化するには医師法二十一条の改正しかない、となる。最高裁まで行けば有罪になったのは確かだと思う。
医師法二十一条の異状死の定義は大きく分けて法医学会の提示した異状死の定義と外科学会が提示した異状死の定義との二つに分かれる。地裁は外科学会寄りの定義を採用し、最高裁は法医学会の寄りの定義を採用した事という事になる。二種類の判決が下されて、今後我々はどちらに従ったらいいのか混乱するばかりである。だからと言ってそれが最高裁判決を無効化しなくてはならない理由になるだろうか。我々は二種類の異なった判決があった事実を率直に受け入れればいいのではないか。一方の定義では異状死に入り届出が要る。また一方の定義では異状死から外れ届出が要らない。そのとき、どちらの定義でも異状死となる症例は届けるのがあたりまえであろう。またどちらの定義でも異状死に入らないのは届けなくていい。問題は一方の定義では異状死に入り、一方の定義ではそれに入らないとなる症例である。だがこれは届ければいいのである。もし本来届ける必要のなかったものを届けてしまっても、何も咎められるものはないのだから。
我々臨床の現場ではこのような事は日常茶飯時であろう。ある疾患の診断に対し二種類の検査をした。二つとも陰性であれば、これはOKを出す。しかし二つのうち一つは陰性だが一つは陽性と出たら、これは癌の疑いがあるとしてその後のフォローを怠らないだろう。こういうファジーな対処には慣れているのである。異状死に関してもどちらかが陽性にでるかもしれないよ、と考えて対処すればいいだけの話である。最高裁を忌み嫌う必要性など何処にもない。
次に厚生労働省が押し進めている医療安全調査委員会設置法案(仮称)大網案について。
この案が通れば、まず医師が検案して犯罪性が疑われれば警察に通報する。その疑いが無ければ警察への通報はせず、調査委員会に委任し、医師の医療過誤が有ったか無かったかを検証する。医師の重大な過誤が認められれば警察に通報となるがそれが無ければ警察への通報はない。こうなった場合検案した医師の社会的責任は重大となる。初動捜査をするしないの判別を行う義務が負わされる事になる。医師にその責任が全う出来るであろうか。
医者より頭のいい犯人がいて、医療事故を装った殺人を犯し、医師は自分の医療行為に間違いは無いと思っていても、死んでしまったのは自然界にはこういう考えられない事態も起こりうるのだろう、勉強になったと、そこでは自分の無過失を証明するのにやっきになり、調査委員会も調査の結果、医療行為に問題は無く医師に過失無しの判定を下したら、それで終わってしまう。この流れ図ではそうなることになる。医師にこの故人にいくらの保険金が掛けてあったかなど知る術もない。善良な医師は人を疑う事など知らないのだ。また医師がどうもおかしいから警察に通報すると言ったら、遺族との間に軋轢が生じるのは目に見ている。医師によほどの自信がないかぎり通報は成されないだろう。通報していたら簡単に発覚した事例が闇に埋もれてしまう可能性がある。こうした事態は社会全体にとって不利益であろう。現行法通り”法により異状死は届けなくてはならないのです”と言う方が医師は楽です。