表 紙(P.1)

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目 次(P.2)

           □ ゾウが逃げたゾウ(P.3-4)

           □ ある校長の死(P.5)

           □ Pain(P.6-7)

           □ サイパン訪問記(P.8-10)

           □ 虚数 ⅰ(P.11-13)

           □ 娘の為の祈り(P.14-22)

           □ 月と太陽(P.23-26)

ゾウが逃げたゾウ(P.3)

 

 今日の読売新聞にスマトラ島沖地震でゾウが津波を予知し逃げ出していたという記事が載った。人間は14万人も死者が出たというのに。!!海岸の観光地用のゾウが地震直後の時刻に今までゾウ使いが聞いたこともないような叫び声を上げた。ゾウはいったん泣き止んだが1時間後再び騒ぎ出し観光客を乗せたまま林を抜け丘へ逃走。他のゾウも頑丈な鎖を噛み切って逃げた。その直後津波が襲った。ぞうが逃げたところまで津波は押し寄せて来なかった。人間は14万人も死んだというのにゾウは全部逃げたということである。ゾウは津波もさらにその前に起こった地震も認識出来たのだろう。

 

 ゾウには特殊な予知能力があるのか?ゾウ以外の動物はかなり死んだのか?という疑問がわき、”動物”と”津波”で検索してみた。沢山ヒットした。

 

 今回の津波でスリランカの鳥獣保護区である同国立公園では奇妙なことが起こった。ゾウはおろか、野ウサギの死骸だにまだ発見されていないというのである。野生動物はみんな逃げた??

 

 

動物には第6感が働いたのだろうなどと述べてあった。第6感ってなんだ、six sense という映画もあったが、あれは人間の霊的な能力のことを言っていた。今回の動物の”第6感”はそんな魔法の力を指しているのではない。現実にあるものである。5感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5つを指すがそれ以外のものを動物がもつか?暗闇の中を飛行するコウモリは超音波を使っている。これは聴覚の延長ととれる。イヌの嗅覚、これも超能力とは言えても決して霊的能力ではない、いわゆる5感の範疇に入るだろう。動物も5感以外の感覚は持たないのではないか。ただその感覚が人間以上に超越しているだけではないのか。

 

このとき、ゾウ達を精神的に異状な状態にあったと診断し、鎮静剤を投与して浜辺で寝かしていたら全滅していたであろう。

ゾウが逃げたゾウ(P.4)

 

 ここで”5感”についてもう少し調べてみた。5感の1つ触覚は単純に皮膚の感覚を脳に伝えるものなどではなく、表在感覚(触覚、痛覚、温度覚)、

 

深部覚(圧覚、位置覚、振動覚など)、皮質性感覚(二点識別覚、立体識別能力など)など多様な機能を含んでいる。それ以外にも感覚には内臓感覚、平衡感覚などが存在しヒトの感覚は5種類以上存在する。とある。 臭覚と味覚は外界の化学物質を見分ける検索方であるので1種類のカテゴリーに入れてもよさそうだ。今までの感覚5分類は適切ではないようである。分類の仕方はどうでもあれ外界からの化学作用、物理作用を神経細胞が電気信号で脳細胞に伝達し、脳が外界を認識することだと考えられる。ゾウも地中を伝わってきた(あるいは水中、空中を伝わってきた)物理エネルギーを体のどこかの受容体を使って認知しえたのだと思われる。

 

 ここまで考えて最近自分が感じていたある1つの命題が正しいかったという確信が持てたのである。ゾウは人間には感知出来なかった危険を感じ恐怖におののいた。そしてそれが自分の身を助けた。恐怖を感じる事、体に痛みを感じる事はその生体を生き延びさせるに有効な手立てなのである。人間も(特にメスそれも産卵期のメス)は恐怖に駆り立てられるのが平時のときより強いというのは当たり前のことではなかろうか。生まれたばかりの赤ん坊を持つ母親は外敵から子供を守る為微細な刺激に過剰に反応することは当たり前であろう。

 

むしろのほほんと優雅にくらしている母体からはその子孫は生き延びる確立が低かったと推測出来る。何が言いたいのかというと今、県が推進しようとしている産褥期うつ病に対する対策に警告を発しているのである。マタニティブルーズを疾患、精神病前症と認定して県の保健師看護師が精神的介入をしようとするのはあまりに根拠が薄い。精神科医、産科医の意見を聞きしっかりエビデンスを見た上でなければこの事業は起こすべきでないと考えるのである。マタニティブルーズを感じ恐怖感を感じることは人類の生存とって必要なことなのだ。彼女達は本当の病人ではない。間違って治療しようとしてはならない。

ある校長の死(P.5)

 

 高校の規定授業時間が足りなかったため、受験前のこの大事な時期に補習講義の時間数を消化しなくてはならなくなった。その責任を取ってある高校の校長が自殺した。

 

他の方法はなかったか。例えば高校を卒業しないで検定試験を受けて大学受験権利を得るという方法もある。この時期、大学受験科目に集中して勉学すべきだろう。仮に検定試験を落ちたとしても次学期になって補習講義を受け2~3ヶ月遅れの卒業をし、次の年の大学受験に備えればいい。だいたい検定試験に落ちるような学力では大学に入れない。

 

 

自分が校長の任にある高校を卒業しない道を生徒に選ばすのも校長として勇気ある行為である。困難に突き当たったとき、あらゆる知恵をふりしぼりそれを克服していく、そのような精神を鍛え教えるのが真の教育であろう。

 

この校長に知恵も勇気も感じられない。あるのはただ重圧からの逃げの自殺である。

 

「死を軽蔑するのは勇敢な行為である。だが生きることが死ぬことよりつらい場合、まことの勇気はあえて生きることである」新渡戸稲造著武士道より。

 

生徒諸君!自殺した校長を軽蔑せよ。そして君達は絶対に、死んではならぬ。

Pain(P.6)

 

 内科の医師から往診を依頼された。5ヶ月前の事である。寒村に住む2人きりの老夫婦。妻はパーキンソン、大腿骨骨折で寝たきり。夫が自宅で介護すると病院から引き取った。もう4年になるという。

 

 私への依頼は外陰部の痛みを見て欲しいという事であった。一通りの婦人科的な診察細胞診は特に異常ない。おむつをあてっぱなしの為の膣炎外陰炎として治療した。

 

調子いい時は1月くらい何も言ってこないのだがしばらくすると又痛がって困ると電話がかかって診に行く。何をやってもこれという決め手がない。妻の訴えに対し夫は冷たい手ぬぐいで患部を拭いてやるのだと言う。そうすればその時は痛みが治まるようだと。ときどき一晩中痛がって困ったと翌朝疲れ果てた声で電話がかかる。一昨日もそうであった。後で診に行きましょうと言うとその日は2週間に一度の内科の先生の往診日だと言う。時間をあわせて一緒に診る事にした。

 

その診察である事に気付いたのである。私一人の診察の時は外陰部の痛みを訴えるのだが内科の医師の前では足の痛みの方が強いのだ。この痛みはなんなのだろう。

 

ペインクリニックの医師の話を思い出した。それは両親が不仲になると腹痛をくりかえすという子供の話である。急に腹痛を起こし両親が子供を病院に連れて行く。病院に行けば腹痛がおさまり、病院からの帰り3人で仲良くレストランで食事をして楽しい時間を過ごす。その願いが無意識下で痛みとなってその子におこる、というものである。

 

昨日、大学のペインクリニック外来に電話してみた。やはり甘えというか精神的なものから来る痛みが最も考えられるという事で向精神薬の処方をいくつか頂いた。

Pain(P.7)

 

これで彼女は痛みから解放されるだろう。しかし彼女にとってこの痛みは本当に苦痛だったのだろうか。足が痛いときは夫が足を擦ってやれば痛みがおさまる。妻は無意識下で夫に触れていて欲しかったのではないだろうか。イタイ、イタイと夫を呼ぶのはおぎゃあ、おぎゃあと母親を求める赤ん坊の声と同じだったのかもしれない。

サイパン訪問記(P.8)

 

 今年の正月は少し永い休みをとってサイパンに滞在しました。サイパンは今度うちの次女が嫁入りするところです。結婚相手は日本人ですが、ここでダイバーの仕事をしているのです。

 

 サイパンでは戦争の残骸が多くありました。バンザイクリフに行くつもりで探していたら”suicidecliff(自殺の崖)”という標識があり、ああこの地名を日本人がバンザイクリフと訳したんだなと思ってそこへたどり着くとそこは山の上。崖にはなっていましたがここが最もの激戦地で多くの兵が自害した場所でした。実際のバンザイクリフはそこから少し北の海に面した崖です。

 

 別の日、この島の最も高い山”Mt.タポチョ"に登りました。高いと言っても三百メートル台です。そこから三百六十度の海と島全体が見渡せます。日本軍がここに作戦本部を設置し上陸して来た米軍と攻防戦を繰り広げた。その資料が展示してありました。

 

 米軍は西海岸のなだらかで広陵なランディングビーチから上陸し、(ここから上陸したか Landing beach)。続いて南にある飛行場を制覇、さらにこの山も制覇され、とうとう北のバンザイクリフまで追い詰められた。

 

ここに立つと戦いの様子が浮かんで来ます。

 

 また別の日、資料館に行きました。正面にこの戦争に至るまでの日本とアメリカ双方の主張が左右のボードに述べられていました。色々理由はありますが結局は領地の取り合いでしょう。この島は17世紀にスペインが占領、続いてドイツ領になり、その後に日本領となった。チャムロ人は四千年前からここに住んでいたようです。四千年前のまま手付かずでおいておけばよかったのではないかという気がします。

サイパン訪問記(P.9)

 

 

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 そんな事を考えていた正月三日の朝、サイパンの新聞に天皇陛下の写真と詩が載りました。昨年のサイパン訪問の時の写真、そしてこの正月の歌会で読み上げられた句が英訳で掲載されていたのです。この地でこの戦争で亡くなった人々を悼んでの詩。辞書を片手に読んで見ました。いい詩です。涙が出そうになりました。日本に帰って原著の和歌を探してみましたがみつかりません。

サイパン訪問記(P.10)

 

 

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そして2年後、そのサイパンに行った娘に赤ん坊が産まれました。

 

 

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虚数 ⅰ(P.11)

 

ある数を2乗して「ー1」となる数なんて実在世界には存在しない。人間の概念の中に出来たものである。

 

イマジネーションの( ⅰ ) と表現される。だが存在しない虚数 ⅰの発見により数学物理学は飛躍的な発展を遂げた。現在これ無くしてはロケットも飛べない、手持ちのパソコンだって動かない。実存しないイマジネーションが世界を動かしている。

 

 ここでふと考えた。 ⅰ は実際には存在しない数、だから嘘の数字で虚数。それに対し「-1」は実数である。「-1」は実際に現実社会に存在する。だがよくよく考えてみて本当に「-1」は存在するのか。これも嘘の数ではなかろうか。現実社会にあるマイナスの存在とは借金がそうであろう。だが借金は目に見えない。目に見える「マイナス」の現物というものはあるだろうか。

 

 今、ウイスキーの水割りのグラスを見ている。ここに入っている氷の温度がー30度Cとする。 -30度Cの氷の塊と同じ質量の30度Cのお湯を混ぜ合わせば0度の水になる。だから「ー30」という温度は存在する。この氷は目に見えるものである。0という概念もー30という概念もイマジネーションだけでなく現実に存在するものなのである。

 

ところが諸君、騙されてはいけない。これは絶対温度で考えなくてはいけないのだ。摂氏0度は「0」ではない。摂氏ー273度が絶対温度で言う0度となる。摂氏ー273度以下の温度は存在しない。分子の振動がまったく無くなりエネルギーが「0」の状態である。このエネルギー「0」より低い状態はないのである。つまりマイナスはこの世に実在しない。マイナスは人間のイマジネーションの中にのみ存在するのである。

虚数 ⅰ(P.12)

 

 借金も人間のイマジネーションの中に産まれた化け物である。そしてそのイマジネーションが現実の世界を動かしている。

 

所持金「0」の人が、自分と世間の間に銀行を介して借金100万円という概念を作り出せば、現金100万円が現実の世界に生まれる。このリアルな金が世の中を動いて行く。

 

 サブプライムローンで破綻した民衆に教会は新たな生き方を提唱している。収入の8割で生活しなさい。そして1割を貯蓄に、あとの1割を教会に寄付。堅実な生き方だ。原始社会の生活そのもの。ただ銀行に吸い取られそうになったお金がこんどは神の元に。私ならその分、酒代に回すけど。天使の取り分というやつである。

 

 だがこの生き方では医者も開業は出来ない。こつこつ1割づつ貯めて開業資金が貯まった頃は定年の歳になってしまう。借金は現実の世の中に必要なのである。

 

 借金という概念はいつごろからあるのか。紀元前ローマの将軍ユリウス・カエサルが富豪から借金をして軍備を取り揃えたという記述がある。借金という概念は大昔からあった。富の蓄えという現実があれば借金という概念も生まれてきたに違いない。

 

 刑務所に入らなければならなくなった音楽家も自分のイマジネーションの中で巨大な創造を成していたのだろう。実際にそれまで彼のイマジネーションが巨万の富を生み出していたのだから。

虚数 ⅰ(P.13)

 

 イマジネーションの中にある"虚"が実際に虚であるか実であるか。剣の極意書には虚を持って実を打つという表現がある。虚の中に実際には実があるという意味ではなく、まったくの虚で実に打ち勝つという。

 

 イメジネーションの中に存在するから現実に実在するのだとする人もいる。cogito, ergo sum.ここに有る自分の存在と自分の意識下に有る自分の存在どちらに重きを置くべきだろう。虚に生きるのも実に生きるのもあっていいのではないか。イマジネーションでならば紀元前の世界でも地球誕生の時代までもあるいは太陽系を飛び越えて銀河の向こうまでへも行くことができる。我々はどこからきてどこへ行くのか。そして自分の存在理由とはなんだ。

 

 そんなくだらない想いを巡らせながら、重ねた水割りのグラスに浮かんだ氷を眺めているとき、カウンターの向こうから乾いた声が聞こえたような気がした。

センセイ、愛は虚数よ。

娘の為の祈り(P.14)

 

リチャード・ドーキンス

 

「悪魔に使える牧師」より引用

 

 

親愛なる杏奈へ

 

 君が10才になったので、私が大切だと思うことについて書きたいと思います。私たちが何かについて知っていることが、どんなふうにしてわかったのか、と不思議に思ったことはないですか?たとえば空に針で穴を開けた小さな点のように見える星が、実際には、太陽のようにとても大きな火の玉だということはどうしてわかるのでしょう?また、地球が、そのような星のひとつである太陽のまわりをぐるぐるまわっている小さな球体だということが、どうしてわかるのでしょう?

 

 そうした疑問に対する答えは「証拠」です。証拠というのは、それが事実であることを実際に目で見る、そういったことなのです(あるいは耳で聞く、感じる、嗅ぐ・・・)。宇宙飛行士たちは、地球から十分に遠いところまで飛行して、自分の目で丸い地球を見ることができました。場合によっては、それが道具の助けを必要とすることがあります。“宵の明星”は、空にきらめいているように見えますが、望遠鏡を使えば、それは美しい球体であるのを目で見ることが出来ます。-この星は金星と呼ばれています。直接目で見て(あるいは耳で聞き、触って)学ぶことは、観察と呼ばれています。

 

 証拠は、ただ観察する、ただそれだけ、ということもよくありますが、観察はいつでも、その裏で嘘をついています。

娘の為の祈り(P.15)

 

殺人があったとします。たいていの場合、誰も(その犯人と死んだ人意外は!)実際にそれを観察していません。しかし刑事は、ほかの観察結果をたくさん集めることができます。それらがすべて、特定の容疑者を指しているということがあるかもしれません。もしある人の指紋が、発見された短剣についていた指紋と一致すれば、その人がそれに触ったという証拠です。それは彼が殺人をしたと証明しているわけではありませんが、ほかの数多くの証拠と一緒にしたときに役に立ちます。そして刑事は、さまざまな観察の全体についてじっくりと考えているうちに、突然すべてがうまくそれぞれの場所に収まり、もし、そいつが殺人を犯したなら辻褄が合うことに気づくのです。

 

 科学者とは、世界と宇宙についての真実を見つけ出すことを専門にしている人々のことですが、彼らは刑事のような仕事をすることがよくあります。何が真実であるかについて、推理を行ないます。それから、自分に問いかけます。もし、それが本当に事実だとしたら、これこれのことが見えなければならないのではないかと。それは予測と呼ばれています。たとえばもし大地が本当に丸いのなら、同じ方向へ向ってひたすら前進する旅行者は、最終的にもとの出発点に戻ってくるはずだと、予測することが出来ます。医者が、君が“はしか“にかかっていると言うとき、ちらっと見ただけで”はしか“とわかるわけではないのです。最初にさっと見た様子から、君がはしかにかかっているのではないかという仮説を立てたのです。そして彼は、もしこの子が本当にはしかにかかっているなら、確かめなければならないことがあると自分に問いかけるのです。目で(君には発疹があるか?)、手で(額が熱いか?)、耳で(胸からはしかのような咳が聞こえるか?)検査していきます。それからやっとお医者さんは「この子ははしかにかかっている」と診断を下します。ときには血液検査やレントゲンのような他の検査が必要になることがあります。

娘の為の祈り(P.16)

 

 世界について知るために科学者はもっとかしこい複雑な方法をもちいます。信じてよい事項である“証拠”の話しをしました。次に何でも信じてはならないという3つの悪い事項について、君に警告しておきたいと思います。それは“伝統” 、“権威”、“啓示(お告げ)“と呼ばれているものです。

 

 ①伝統:

 

最初は伝統です。数ヶ月前、私はテレビ局に出かけて行って、50人ほどの子供たちと議論をしました。これらの子供たちはさまざまな異なる宗教のもとで育てられたという理由でそこに呼ばれたのです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、あるいはシーク教徒として育てられてきた子供たちです。マイクをもった男の人が、子供たち1人1人に、順番に、何を信じているか質問していきました。彼らが言ったことはまさに、私が“伝統”という言葉で表そうとしたことの正体を浮き彫りにしています。彼らの信仰は、証拠とは何の関係もないことがわかりました。子供たちはただ、両親やおじいさんおばあさんの信仰を持ち出してきただけで、それらは、いずれにせよ、証拠には基づいていないことが明らかになりました。彼らは「私たちヒンドゥー教徒はこれこれを信じます」「私たちイスラム教徒はこういったことを信じます」「私たちキリスト教徒はこれを信じます」というようなことを言ったのです。

 

 もちろん、彼らはそれぞれ別のことを信じているのですから、全員が正しいということはありません。司会者もお互いの意見の違いを議論させようとさえもしません。そうなるのが当然と考えていたようです。しかしそれは私が言おうとしている点ではありません。私はただ、彼らの信仰がどこから来たのかを尋ねたいと思うだけです。それは伝統からくるのです。伝統とは、おじいさんおばあさんから両親へ、そしてその子供たちへというふうにして、受け渡されていく信仰のことです。あるいは、何世紀にもわたって手渡されていく本からくるのです。

娘の為の祈り(P.17)

 

伝統的な信念はほとんど何もないところから始まることがよくあります。たぶん、誰かが最初に、アラーやゼウスについての物語のようなものを、こしらえあげただけのことでしょう。けれども何世紀にもわたって受け渡されていくと、とても昔にできたというだけで特別なもののように思えてしまうのです。人々は、ほかの人々が何世紀もおなじことを信じたというだけの理由でそのことを信じるのです。これが伝統や伝説と呼ばれるものです。

 

 伝統がもっている困った点はある話がどのようにしてつくられたかに関係なく、いつまでたっても、最初のままの真実あるいは偽りのままだということです。もし君が事実でない話をこしらえて、それを何世紀に渡って未来に引き継がせたとしても、それはちっとも事実に近づくわけではないのです。

 

 この国には色んな宗派の仏教がありそれぞれ皆違ったことを信じています。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教はさらにもう少し大きく違っています。人々は信じていることがほんのわずかにしか違っていなくてさえ、その意見の違いをめぐって戦争を始めることがしばしばあります。そこで君はそういうことを信じている人たちには、そう信じるだけの何かちゃんとした理由―証拠―があるのかもしれないと考えるかもしれませんね。しかし実際には、人々が違った信仰をもつのはなにからなにまで、伝統の違いのせいなのです。

 

 非常に特徴的な1つの伝説のことを話しましょう。ローマ・カトリック教徒はイエスの母マリアはとても特別な人だったため、死なずに、肉体をもったまま天国に昇ったと信じています。別の宗派のキリスト教の伝説はこれを認めないでマリアはほかの人間と同じように死んだと言っています。マリアの肉体が天に昇ったという伝説はそう古いものではありません。イエスの時代から6世紀に渡るまでは作られていません。最初それは『白雪姫』のようなお話がつくられるのと同じやり方でつくられたのです。

娘の為の祈り(P.18)

 

しかしそれが何世紀にも渡り受け継がれていくうちにそれは伝説に成長し、人々はそれがたくさんの世代を受け渡されてきたというそれだけの理由でそれを真面目に受け止めるようになったのです。そして最後には正式なローマ・カトリックの信仰として文章にとどめられることになるのです。それは1950年というごく最近になってからのことです。

 

 伝説についてはこの手紙の最後でもう1度触れ、別の形で検討することにします。ここでは何でも信じてはいけないというあとの2つの事項“権威”と“お告げ”について片付けてしまいましょう。

 

 ②権威:

 

 何かを信じるための理由としての権威とは、誰か偉い人からそれを信じるように言われたから信じるということを意味します。ローマ・カトリック教会では法王が最も偉い人で、人々は彼が法王であるというそれだけで、彼が正しいに違いないと信じるのです。イスラム教のある宗派では最も偉いのはアヤトラと呼ばれる髭をたくわえた長老です。多数の若いイスラム教徒が、遠い国に住むアヤトラがそう言ったというだけで、殺人にかかわる心の準備をするのです。この国でも偉い学者がそう言うのだからそうに違いないと証拠や裏づけもなく信じられて来たことはたくさんありました。ローマ・カトリック教会の法王が1950年にマリアが肉体のまま昇天したと信じなくてはならないと告げた、これだけのことなのです。法王が一生のうちに言ったことのなかには真実であるものもあれば、真実でないものもあるでしょう。彼が法王であるというだけで、ほかの多くの人が言っていることを信じる以上に、彼の言うことを何でも信じなくてはならないという正当な理由はありません。

娘の為の祈り(P.19)

 

 もちろん、科学においてさえも、時には自分で証拠を見ることが出来ないので、ほかの誰かの言葉を真実と思わなくてはならないことがあります。私は、光の速さが秒速30万キロメートルであることの証明を自分の目で見たことはありません。その代わり、光の速さを教えてくれる書物を信じています。これも“権威“のように見えます。しかし現実には”権威“よりずっといいものです。それを書いている人が証拠を見ているし、そうしたいときはいつでも証拠を綿密に調べることが自由だからです。これはとても喜ばしいことです。しかしマリアの肉体が天に向って急速度で上昇したといった話を裏付けるなんらかの証拠があると主張する聖職者は、まさかいないでしょう。

 

 ③お告げ:

 

 何かを信じることについての3つめの悪い事項は“お告げ(啓示)”と呼ばれているものです。もし君が1950年法王に対して、「マリアの肉体が天に向かって消えていったことをどうして知ったのですか?」と尋ねることが出来たとしたら、彼はおそらく、「お告げがあった」と答えるでしょう。彼は自分の部屋に閉じこもり、導きを求めて祈った。彼は、たった1人だけで、考えに考え抜き、ますます内面の自分に確信をもつようになっていきます。宗教的な人々が、何かが真実に違いないという気持ちを内面にもっているときには、たとえそれが真実だという証拠がなくても、人々はその感情を“お告げ”と呼ぶのです。お告げを聞いたと主張するのは法王だけではありません。とてもたくさんの宗教的な人々がお告げを聞くのです。

 

 私が君に君のイヌが死んだと言ったと仮定してみて下さい。君はとても驚いて、「本当なの?どうして知っているの?何があったの?」と聞くでしょう。そこで私が「パッチが死んだことは実際には知らないんだ。証拠はないよ。ただ、私の内面の奥深くでパッチが死んだという不思議な感情があるだけなんだ」。君は私が君を悲しませたことで、かなり腹を立てるでしょう。なぜなら内面の“感情”それだけではあのマルチーズが死んだことを信じるもっともな理由と言えないからです。

娘の為の祈り(P.20)

 

証拠がなくてはなりません。イヌが死んだことを確かめる確実な方法は、死んだところを見るか、あるいは心臓が止まっているのを耳で聞くか、あるいは、イヌが死んだという何か本当の証拠を見たか聞いたかした人に教えてもらうことです。

 

 人々は、時に、内面の奥深くにある感覚を信じるべきだ、そうでなければ、「妻は私を愛している」といった事柄を確信できないだろう、というようなことを言います。しかしこれは間違った物言いです。誰かが君を愛しているといった証拠はいくらでもみつかるでしょう。もし君を愛している誰かと1日中一緒にいれば、小さな証拠のかけらをいっぱい、見たり聞いたりでき、すべて納得できるはずです。それは聖職者たちがお告げと呼ぶ内面のみの感情だけではないのです。瞳をのぞき込むとか甘い声の調子とか、ちょっとしたしぐさや親切で内面の感情を後ろから支える外部の事柄があるのです。こうしたことは、すべて現実にある証拠なのです。

 

 時には、なんの証拠もないのに、誰かが自分のことを愛しているという強い内部の感情をもつ人がいます。こういう場合にはその人がまるっきり勘違いしている可能性が大きいのです。有名な映画スターが自分のことを愛しているという強い内面の感情を持った人がいます。実際にはその映画スターに1度も会ったこともないのにです。そういった人々はみな、心の病気なのです。内面の感情は証拠で裏づけられていなければなりません。

 

 科学においても内面の感情は大切ですが、それは後で証拠を探すことでテストできるヒントを与えてくれるという役割からです。科学者は、あるアイデアが正しいと“感じられる”という「直感」をもつことがあります。だたそれだけでは何かを信じていいという正しい理由にはなりません。証拠を探すための実験法を考えたり、調べたりするために多大の労力と時間を費やします。科学者はどんなときでも、アイデアを得るために内面の感情を使うのです。しかし、証拠によって支持されるまでは、そうした思いつきは、何の価値もないのです。

娘の為の祈り(P.21)

 

伝統:

 

伝統についての話に戻ってくると約束しました。今度はそれを別のやり方で検討してみましょう。伝統は悪い3つの事象の1つと言いましたが、ここでは伝統の大切さについて考えてみましょう。私たちにとってなぜ伝統がそれほど重要なの かという理由を説明してみようと思うのです。もし君が生まれてすぐさらわれて狼に育てられたとしたら人間の言葉はわかりません。人間に育てられたとしても、育った国が違えば教わった事柄、言葉が違います。使う言葉は伝統によって伝え渡されていきます。それ以外のやり方はないのです。アメリカ人に育てられたらイヌのことをドッグといい、ドイツならフンド、日本では犬と呼びます。どちらか一方の言葉がより正しいとかより真実だというようなことはありません。どちらもただ受け継がれてきただけのことです。子供は自分の国の言葉や自分の国の人間についてのたくさんの事柄を覚えなければなりません。ということは、とてもたくさんの伝統的な情報を、吸い取り紙のように吸収しなければならないことになります(伝統的な情報とは、おじいさんおばあさんから、両親、子供へと受け渡されている事柄について言っているだけだというのを覚えていて下さい)。子供の脳は伝統的情報の吸い取り紙でなくてはならないのです。そして子供に、その国の言葉の単語のような、役に立ついい伝統的情報と、魔女や悪魔や不死の聖母マリアを信じるといった、馬鹿げた悪い情報とを選り分けるように期待することはできないのです。

 

子供は伝統的な情報の吸い取り紙だから、大人の言うことを、真実であっても嘘であっても、正しくても間違っていても、何でも信じてしまいやすいということは、残念なことですが、どうしようもありません。大人の言うことの多くは、証拠に基づいた真実であるか、少なくとも良識のあるものです。けれども、その一部が、嘘だったり、馬鹿げていたり、あるいは邪悪なものでさえある場合、子供たちもそれを信じてしまうのを防ぐ方法はありません。さてその子供たちが大人になったとき、どうするでしょうか?そうです。もちろん、彼らは次の世代の子供たちに伝えるのです。そして、何かがいったん強く信じられてしまうと(-たとえ、それが完全に嘘であり、そもそもそれを信じる理由などまったくなかった場合さえ-)永遠に続くことになるのです。

娘の為の祈り(P.22)

 

これは宗教でおこってきたことではないでしょうか?神あるいは神々の存在を信じること、天国を信じること、マリアが決して死なないと信じること、イエスが人間の父親をもたなかったと信じること、ぶどう酒が血に変わると信じること――こうした信仰のどれ1つとして、正しい証拠によって裏づけられてはいません。でも、何百万人という人々が信じているのです。たぶんきっと、人々が何でも信じてしまう幼いときに、信じるように教えられたからなのでしょう。

 

ほかの何百万人という人々は、子供のときに違ったことを教えられたために、まるっきり違ったことを信じています。イスラム教徒の子供は、キリスト教徒の子供とは違ったことを教えられます。そして両方とも、大人になって、自分たちが正しくてあいつらは間違っていると、すっかり信じこんでしまうようになります。キリスト教徒のなかでも宗派の違いで、そしてモルモン教やクエーカー教、仏教はそれぞれ違ったことを信じていて、誰もが、自分たちが正しくてほかの宗派は間違っていると信じています。彼らは君が日本語をしゃべり、アンナ・フランクリンがドイツ語をしゃべるのとまったく同じ種類の理由によって違ったことを信じているのです。どちらの言葉も、それぞれの国では、正しい話し言葉です。しかし異なった宗教がどちらの国でも真実だということはないのです。なぜなら、異なった宗教は相手の宗教が間違っていて自分たちの宗教が正しいと主張しているからです。マリアがカトリックのアイルランド共和国では生きていて、プロテスタントの北アイルランドでは死んでいるというようなことはありえないのです。

 

こうしたことを、私たちはどうすればいいのでしょう。君が何かをするというのは簡単ではありません。君はまだ10才なのですから。でも努力することはできます。今度、誰かが、大切そうなことを君に教えたときには、自分で「これは、証拠がきっとあるから人々が知っているというような事柄なのだろうか?それとも、伝統、権威、お告げだからという理由だけで信じられているような事柄なのだろうか?」と、考えてみるのです。そして今度、誰かが、あることが真実だと言ったときに、「それはどんな証拠があるのですか?」と尋ねてみてはどうだろうか。そして、もしその人たちが、正しい答えをすることができなければ、君は君に言われた言葉を信じる前によくよく考えてくれることを、私は期待します。

 

愛する父より

月と太陽(P.23)

 

 宮島の南西に位置する可部島という小さい島で終日遊んだ後、夕方海を渡って大野に帰る。大野の海沿いのレストランに入りテラス席に座る。太陽が沈んで行く。空は濃いブルー色となる。点滅する飛行機の明かりがぽつぽつと見えてくる。淡く白い半月の輪郭が次第にはっきりして来た。陽に焼け、火照った身体に冷えたワインがしみこんで行く。その月を見ながら、うんちく親父は語るのである。

 

 

 まず右手の親指を立てて月の方向に腕を伸ばす。こうするとこの親指の爪と月の直径が一致するのだ。父の場合は爪の方がやや大きい。この親指の爪と月の直径が一致するのはアングロサクソンの体型であって、彼らは腕の長さが1mもある。父の場合は80cmしかないから親指の爪は観測者に近くなり、相対的に爪の方がおおきくなるのである。まあ、誤差範囲だ。そのまま腕を水平線に下ろすとさっきまで遊んでいた可部島がすっぽりこの爪の中に入る。あの島と月の直径は相対的には同一なのだ。それは太陽についても言える。つまり対象までの距離とその対象物の大きさの比が同じだということだな。大体100対1だ。

 

 悦に入っている父の言葉を3人の娘達は何も聞いていない。パスタを食べるのに夢中になっている。父のうんちくは続く。あの島の高さは20mくらいだったろう。だったらここからあの島までの距離は約2000mとみていい。さあ、ではここから月までの距離を知るにはどうすればいいか。それは月の直径を知れば分かることになる。月の直径はどうすれば分かるか。

 

 

 これは月食の観察からそれが分かったのだ。月食の時、月が地球の影に入り見えなくなる。月が欠け始めて完全に見えなくなるまでの時間を測る。そして今度月が顔を出すまでの時間を測る。これが丁度4倍なのだな。これから月の直径は地球の直径の4分の1ということが分かった。ならば地球の直径を知れば月の直径が分かる。では地球の直径を知るにはどうすればいいか。

月と太陽(P.24)

 

 これは月食の観察からそれが分かったのだ。月食の時、月が地球の影に入り見えなくなる。月が欠け始めて完全に見えなくなるまでの時間を測る。そして今度月が顔を出すまでの時間を測る。これが丁度4倍なのだな。これから月の直径は地球の直径の4分の1ということが分かった。ならば地球の直径を知れば月の直径が分かる。では地球の直径を知るにはどうすればいいか。

 

 

 垂直に掘った井戸の底に太陽の光が当るとき、これは赤道直下で太陽が垂直に頭上に来たときだ。同時刻にその井戸から真北に規定距離を行った場所に垂直のポールを立てそのポールがつくる影の長さを測る。ポールの長さとその影の長さからそこで出来る直角3角形の内角の角度が分かる。その角度がその場所が赤道から何度北に行ったか、つまり測定地の緯度を示すことになる。井戸からポールまでの距離と移動したまでの角度が分かれば地球の円周が出る。そこから地球の直径も分かる。

 

 

 パスタの次にピザが来た。父は続ける。このピザを8分割とか16分割するだろう。そしてその1辺の長さが分かれば円の周囲が分かる訳だ。このピザを地球だとするとその中に月が4つ縦に並んでいる勘定になる。さてこれで地球から月までの距離が分かった。では次に地球から太陽までの距離はどうすれば分かるか。

 

 

 今夜のように月が半月のとき。これは地球上にいる観測者と月が作る直線と月と太陽で作る直線、この両直線が直角に交わるときである。このとき観測者と月が作る直線と観測者と太陽が作る直線の交わる角度を測定すれば、地球と月までの距離は分かっているのだから地球と太陽までの距離が分かる。そうなれば太陽の直径も分かる。

 

月と太陽(P.25)

 

 こんなことは古代ギリシアの人達が知っていたんだ。地球が太陽の回りを回っていることだって知っていた。ガリレオよりずっと前にだ。長女が叫んだ。え、地球が太陽の回りを回っているの?太陽が地球のまわりをまわっているんじゃないの?長女は3人の娘の中では一人だけ6年生の大学を出ているのだ。その長女がそんなこと知らない??

   

 

 一番成績の悪い3女が、りなちゃん、地球が太陽のまわりをまわっているんだよ、と恐る恐る答える。おっとりした次女も同意する。じゃ、おまえ達何か、と長女の逆襲がはじまる。月は地球のまわりをまわっているんでしょ。そうだよ。じゃ、太陽だって同じじゃない。太陽も地球のまわりをまわっているんじゃないか。へりくつを言うやつだ。まあ、でも理屈は通っているな。次女3女は学校で習ったことを疑いもしない。こういうへりくつを思いつくなんて、長女が一番父の遺伝子をひきついでいるんじゃないか。たぶん自分もこんな理論展開はときどきやっているんじゃないかと思ってしまった。

 

 

 地球が太陽のまわりをまわっているという事実があるにもかかわらず、こう述べる。月が地球のまわりをまわっているという事は認めるのだね。では太陽も月も同じように我々のまわりをまわっているのは日常観測されていることだ。ならば太陽も地球のまわりをまわっていると考えるべきではないのかね。臨床家の思考回路というのは大体こんなもんだろう。ケペルニカニッヒ。

 

月と太陽(P.26)

 

 でも、常識と信じられていることは本当に真実なのだろうか。地球が太陽のまわりをまわっているのを自分の目で確認したことはない。ひょっとして真実は太陽が地球のまわりをまわっているのだけど、地球が太陽のまわりをまわっているとみんな思い込んでいるだけかもしれないぞ。分からなくなって来た。確かめなくっちゃいけないな。こうなったら宇宙船に乗って白鳥座の上まで行き、5~6年そこから太陽と地球の関係を観測してくるしかない。行ってこよう、と考えているうちに夜空は満天の星になっていた。

 

     (Kopernikanich 独 コペルニクス的な、奇異な)

                                 著    者   八 木 謙

                                 発行者   八 木 謙

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