□ 時論)看護師の内診は違法か (P.3-6)
□ 警察の事情聴取70回 (P.7-10)
□ 意見書―産科医療補償制度についてー (P.12-14)
□ 声明 (P.15-16)
□ 無過失補償制度への逆視点 (P.17-20)
□ 妊婦死亡と医師法第21条 (P.21-31)
□ 「医政局長保助看法問題の解決」に異論 (P.32-42)
□ 将来のこの国の産科医療に助産師は不可欠か (P.43)
保健師助産師看護師法(以下保助看法)に違反して看護師らに内診をさせていたとして医療機関が警察の捜索を受けた事件が大々的に報導された。看護師による内診は違法と言う論拠が成立するか、検証してみたい。
厚生労働省医政局看護課は「内診行為は、保助看法(昭和23年法律第203号)の第三条で規定する助産であり、助産師または医師以外の者が行ってはならない」との見解を示している(平成14年11月14日、平成16年9月13日)。これを受けて警察は「看護師の内診は違法だ」との認識のもとに違反医療機関の捜査を続けている。しかし医師の指示下で行なう看護師の内診は保助看法違反に該当するだろうか。
Ⅰ、産科医療と一般医療
すべての医療行為は医師が看護師に補助をさせて行なっている。手術、注射、投薬、検査、すべて看護師を助手に使って仕事をしている。そうした医療行為の中で助産だけは特殊で、看護師は参加出来ない。助産師の資格まで取った者でなければ産科医療に参加出来ない、という趣旨のようである。
しかし産科医療は他の医療より高いレベルにあるのだろうか?通常の看護師は参加出来なく医師と助産師のみの資格者だけで、他を排除して行なわなければならない特別高度な医療と見るべきだろうか。法はそのような事を言っているだろうか。
逆であろう。助産は医師がいなくても助産師がいればそれだけで行なう事が出来る。つまり通常医療よりむしろ低いレベルに位置している。そして医師により医療機関内で取り扱われるお産はそれより高いレベルに位置し、通常の医療行為と同等である。医師と看護師だけで分娩を取り扱うのは他の医療行為を医師と看護師で取り扱うのと法的に何の違いもない。
Ⅱ、保助看法30条
医師が違反したとする保助看法三十条を見てみる。
第30条 助産師でない者は、第三条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法(昭和23年法律第201号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。
内診を指示した医師はこの保助看法三十条の違反とされた。
医師が助産行為を行なってよいとされる法的根拠は、この三十条の後段「ただし、医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない」との記述により、「助産師でない者は、第三条に規定する業をしてはならない」という文の効力が失われたためである。そこでは助産師でない医師も助産を取り扱う事が出来る。ただし医師法下である事が必須となる。医師法下にある医師は保助看法30条は適用されず、この法の治外法権にある。今回の警察の行為は業務執行中の救急車の運転手を道路交通法違反で摘発したようなものだ。
救急車の運転手はこの法の枠外にいる。同様に医療が行なわれている医師法下では保助看法30条は通用しない。
Ⅲ、診療放射線技師法と保助看法
診療放射線技師法と保助看法を比較してみる。
診療放射線技師法
第24条 医師、歯科医師又は診療放射線技師でなければ、第2条第2項に規定する業をしてはならない。
この三者以外のものが放射線照射を行うのは診療放射線技師法違反である。つまり看護師にレントゲンを撮らせる事は違法となる。
同様の事が保助看法で言えるであろうか。保助看法が“医師あるいは助産師でないものは第3条に規定する業をしてはならない”となっていれば看護師にそれをさせる事は違法である。しかしそうはなっていない。助産は助産師のみしか行なってはいけないという文章自体が打ち消されているのである。三十条の“医師法下ではそのかぎりでない“という表現は助産において、法は医師の裁量を最重視しているものと思われる。
Ⅳ、助産(正常分娩に限定)が医療行為であるか、あるいは医療行為でないか。
①、助産は医療行為か。
厚生労働省看護課の考え方は、助産師の扱う助産は医療行為である。しかしその助産は医師法下にない。助産師は医師法の枠外にある医療を例外的に行なう事が出来る存在である。医療であるから看護師は行なってはいけない。
この理論の矛盾点は医師法外にある医療が存在するとした点にある。ある行為を医療と定義した場合その行為は医師法下に入ってしまう。それが医師法下に入らなければ“医療行為は医師以外は行なってはならない”という医師法第17条に違反する事となる。医師法下以外の医療行為を例外的に認めるという解釈はいかなる法令からも導き出せない。助産師単独で扱う助産は医療ではない。よって助産師が助産を行なっても医師法違反とならない。
②、助産は医療行為でないか。
異常分娩に対する処置が医療行為である事は明白である。それでは正常分娩に対する助産は医療行為でないか。そう考える事も出来る。それでは医師は正常分娩を取り扱っていいのだろうか。医療行為でなければ医師法下にない。医師法下になければ、保助看法30条の“助産師でなければ助産の業をしてはならない”という条文が生きてきて、助産師でない医師は助産を扱う事が出来ない。正常分娩を扱う為には医師の資格を取ったのち助産師学校に入り助産師免許を取得する事が必要となる。
③、この考え方の欠陥は助産(正常分娩)を“医療”か“医療でないか”と一元的にどちらかに分類しようとした点にある。助産(正常分娩)は“医療”とも取れ“医療でない”とも取れると二元的に解釈するのが正しいであろう。
Ⅴ、医師が助産(正常分娩)を扱ってよいという法的根拠
医療機関で取り扱われる正常分娩を医療と定義できるか。できる。これは純然たる医療である。予防医療と解釈される。
正常に進んでいく分娩を側で見守り、異常を見つければ直ちに処置を行なう。最終的に何も異常が起きなかった場合でも医師が扱えばこれは医療である。
Ⅵ、助産行為と医療行為
助産の二元性について更に考えてみる。医師は医師法下で助産(正常分娩も)を扱う。助産師は保助看法下で助産を扱う。両者の立脚する法律が異なる。医師法に縛られない、医療として扱われない助産行為が法的に存在する。同様に保助看法に縛られない、医療として扱われる助産も存在する。医療として扱われた助産に保助看法は介入出来ない。それは医療として扱われなかった助産に医師法が介入しないのと同様である。
Ⅶ、看護師の内診は医師法違反か
その行為が、臨床上、重要な意味を持てば医師法違反と言える。例えば、帝王切開にするか否かの最終判断となる重要な内診であれば、これは医師自らが行なわなければならない。
同様の事は他科のすべての医療において言える事である。注射という行為一つを取ってみても、注射薬の選択、投与量の決定は医師が行なう(医療行為)。病室に行って看護師が患者にそれを注射する(これは医療の補助)。IVH挿入や抗がん剤投与のような重要な注射は医師自ら行なう場合もある。
注射は医療行為だから看護師にやらせてはいけないと、すべての注射を看護師にやらせる事を禁止したら、日本の医療は成り立っていかない。どこまでが医師が行なう医療で、どこまでが看護師に任せてよい医療の補助なのか。そこに厳密な線を引く事は出来ないであろう。その峻別については現場での当該医師の裁量に任せなくてはならない事は多々あると思われる。
結論
この医師を保助看法で裁く事は理論的に出来ない。治外法権下にある。しかし医師法違反で告発する事は理論的には可能である。
ただこの看護師内診行為を医師法違反とするのに充分な論拠とならないのである。
郷土の資料を調べていたときの事でした。松下村塾の塾生達がキセルを折って禁煙を誓い合ったという記載があり、これは最古の禁煙啓蒙書ではないだろうかと思いその出典を探していたとき、偶然別のページからこの文章が目に入って来たのです。当時の医者を批判したものかと思いましたが文全体を読むとそうでもありません。以下解説してみます。
「諂屈」 媚び、へつらう(諂う)、言いなりになる。
溝三朗の説(こうざぶろうのせつ)吉田松陰記「幽室文稿」安政四年(1857)
松下村塾に商家の息子で自他共に優秀と認める少年がいた。優秀ではあったが、世俗的な名誉欲に傾倒する性格がみられた。松蔭はこれを快く思っていなかった。だがそのままにしておいた。ある夜講読が終わった後で少年は前に進み出て言った。「僕、商をやめて医にならんと欲す、如何」。余曰く「医となって何をかを為す」。曰く「商たるを喜ばず」。では何故商人になるのが嫌なのかと聞くと、「商人は富貴の人に諂屈しなければならない」と言う。そこで松蔭は言う「諂し、屈せんば、商も不可なり、医も不可なり。今の医の諂屈なる事、更に商より甚だし。しかれども君子は渇すとも盗水を飲まず、志士は窮すれど溝壑を忘れず。飲まず、忘れずんば医も為すべく、商も為すべし」
(注)「溝壑(こうがく)」とは孟子の中に出てくる「志士は窮すとも溝壑を忘れず」という言葉で、志士は道義を守ろうとすれば貧窮に陥りがちで、死んでも棺桶さえなく、遺体が溝や谷に捨てられる事くらい常に覚悟している。という意味で溝と壑(谷)を指す。
松蔭の言は続く、君の家は裕福で骨董を扱っている。その多くの古書の中に坐し、商い、勉学すれば渇することも窮することもない。冨を以って人を恵むごとく学を以って人を教えるのだ。もし損をして売って生活が困窮することになっても盗水を飲まず、溝壑を満たしていたなら、それは商の道を外れたことにはならない。少年は松蔭の言わんとする事を理解した。松蔭は少年に溝壑の溝を取って溝三朗という名を付けた。
お話はこういう事なのですが、「今の医の諂屈なる事」という一言が「今の現在の医」と言われているように聞こえて来ます。これは百五十年前の人からとんでもない命題を与えられてしまった。診療もやもすれば商に傾きそうになる。また診療以外でも様々な局面で判断を迫られるとき、媚びない屈しないという事を貫くこと、これが自分を見失わない為に必要なのだと勇気づけられた思いがするのです。
「死」という用語の定義は、人が息を引き取った時を言うのか、心臓の動きが止まった時を言うのか、それとも脳の機能が止まった時か、はたまた体内の細胞の最後の一つでも活動があるうちはまだ生きていると言うのか。広辞林によると「死」とは「生命が尽きること、生活反応がまったく止まる事」とある。
先日来、富山県の病院外科部長が患者7人の生命維持装置をはずし死亡させた。この医師を殺人容疑で地検に書類送検した。と報道が続いている。患者本人の意思の表示がないこと、家族の同意も口頭によるもので書類に同意のサインがないことが問題だとされた。
しかし脳死で自発呼吸のない人の人工呼吸を停止する事が殺人なら、心臓の止まった人の心マッサージを医師が止めたとき、その医師は殺人を犯したという理屈になる。
一方、この国での脳死の人からの臓器提供があまり進まないとして本人の意思表示がない場合でも家族の同意があればドナーにしようという声が上がって来ている。我が国では死の定義の確定したものがない。法的に死が認められるのは医師が死亡診断書あるいは死体検案書を作成した時である。その他の何者も法的に死を定める事は出来ない。
「死」の定義はいくつかあるだろう。だが医師が脳死と診断した時、それも「死」と解釈していいのではなかろうか。
この国は脳死の人からの臓器移植を承認したのである。その同じ国で脳死の人の人工呼吸を停止した事が犯罪にあたるとするのは理論的にすじが通らない。脳死の人の人工呼吸を停止することが違法なら脳死の人からの臓器を取り出す事も違法である。脳死の人からの臓器を取り出す事が合法なら脳死の人の人工呼吸器を取り外す事も合法であろう。
家族から「心臓の動いているうちは死なせないでくれ、1分1秒でも長く」という依頼があれば呼吸器を止める医者はいない。しかし家族から「先生もう充分です。父もよくこれまで頑張りました。これまでにして下さい」と依頼があれば「そうですか、それでよろしいですか」と確認を取って呼吸器を止めてもいいと思う。家族にそう依頼されても「いや、今呼吸器を外す事は出来ません。この人はまだ回復する可能性があるのです。今しばらく治療を続けさせて下さい」と依頼を拒否する場合もあるだろう。そしてそれが時が経って「お父さんはもう2度と目覚める事はないと判明しました。脳死の状態となったのです」と告げる事になるかもしれない。だがそれはそれでいいのである。
次ぎに書面での意思の確認だが、こういう時に家族から意思の確認を書面で取れというのはどうかと思う。「それでいいのですね」という問いに「諾」と頷いてもらうだけでいいのではないだろうか。家族の心情を考えるとそこで『父、誰々の呼吸維持装置を外す事を要請します。署名、捺印』。「署名が無ければ外せません」そんな野暮な事をするんじゃないと言いたい。そんな事を要求するのは唯、医師の保身に過ぎないのだ。この外科部長はそのあたりの人間の心の機微をよく心得ている人だと思う。
こうなってからも一切の言い訳がましい事を述べていないのもその人の徳と言ったものが伝わって来るのである。こういう医師を罪に落としてはならない。
ただ一つ、脳死の診断基準は明確なものを設けておかなければいけない。学会倫理委員会が未だ作っていないのなら、個々の病院内での内務規定でそれを作らなくてはならない。そこで脳死の判定は複数の医師の診断がいるとかその他の規定を設ける。医師がその規定を破ったならそれは内務規定違反である。それが無いのに人を裁こうとする方が間違っている。
平成16年12月に腹式帝王切開術を受けた女性が死亡したことに関し、平成18年2月18日福島県立大野病院産婦人科医師加藤克彦氏が、業務上過失致死及び医師法違反の容疑で逮捕勾留され3月10日に起訴されました。
Ⅰ、業務上過失致死及と医師法違反について
業務上過失致死:
起訴状によりますと加藤容疑者は、事前の検査で胎盤が子宮に癒着し、大量出血する可能性を認識していたにもかかわらず、本来行うべき子宮摘出などを行わず、胎盤を無理にはがして大量出血を引き起こしたことが業務上過失致死罪にあたるとあります。しかし、事前の検査で胎盤組織が子宮筋層に入り込んでいることを診断するのは到底不可能なことであります。更にこの癒着胎盤という疾患は1万例に1と極めて稀な疾患であり、その為の特別な用意を事前に成して置くことなどということはありません。今回の事例での大量出血の事前認識など誰にも出来ないのです。この緊急事態に遭遇した時、即座に子宮摘出に手術術式を切り換えるということを行わなかった事について、それはどの手術術式を採用するかは執刀医の裁量権内にあり、最初に他の術式を採用したことについては過失の責任を負わせるにそぐわないと思われます。業務上過失致死罪とは業務上必要な注意を怠り、よって人を死亡させる犯罪をいうとあります。彼の取った行為は充分な注意義務は果たされており、誠心誠意つくしたあげくの不幸な事故とみられます。輸血を1000ml用意して手術に臨んだことをとっても充分な用意はされていたと言うべきであり、業務上必要な注意を怠たったという事実は無いと考えられます。
医師法違反:
起訴状にある医師法違反とは異状死体の届け出義務違反ですが、異状死の解釈は法医学会、外科学会等でその解釈がまちまちです。確実に診断された内因性疾患で死亡したことが明らかである死体以外のすべての死体との考え方もあるし、病気になり診療をうけつつ、診断されているその病気で死亡すること以外を異状死と考えられるとする見かたもあります。このように明確な定義がないため実際にはしばしば異状死の届け出について混乱が生じているのが現状です。仮にこの症例が異状死の定義の範疇に入るとしても、その届け出義務の最終責任は院長にあり、執刀医ではないと考えます。
Ⅱ、逮捕拘留について
業務上過失致死及び医師法違反の容疑で逮捕。逮捕しなければならない理由は逃亡の恐れと証拠隠滅を防ぐ為と発表されました。事故から1年以上経って現在診療活動を行っている者に逃亡の恐れなどあるはずがありません。証拠隠滅を防ぐ為とありますが、隠匿しなければならない証拠は存在せず、20日以上の勾留のあげく新規に上がった物は何も無かったではありませんか。起訴に至った証拠はすでに事故報告書に記載されていたものから得られた物だけです。これは不正が行われたと疑って逮捕、その後勾留中に新たな証拠が得られると狙った行為と思われます。人権無視も甚だしい。ゲシタポや戦前の日本の憲兵隊を髣髴とさせる嫌悪を感じます。何も隠していることが無いのに自白を迫られる恐怖と無念さは想像するに耐えません。日本の警察の権威信頼は地に落ちたと言わざるを得ない。更にこの逮捕勾留の為に地方病院の産婦人科診療が閉鎖に陥ったこと。産婦人科医を志望する若い医師は減り、他の手術を行う科の医師も恐怖に慄くことになること。社会に与えた影響は多大なものと考えます。今後のこの国の健全な医療の存続を守る為にも、ここに今回の検察警察の行動に断固抗議するものであります。
現代、日本は世界水準第1位という安全な分娩が行なわれている国である。しかしそれでも1000分娩に6例の児死亡、1000分娩に1例の障害児、更にその2桁下の確率で極まれではあるが母体死亡が全国で年間100件程度ある。これは半世紀前の日本と比べれば児死亡は1/20、母体死亡は1/50に減ったのである(障害児については過去の明らかな統計がない)。この成果は分娩が医師の手に移り、その結果、驚異的な産科医療の発達が為されたことによる。今も産科医の日夜を問わぬ努力によってこの数字が保たれていると言って過言ではない。これ以上の数字を出そうと、尚、努力は続けているが、その成果はなかなか数値となって報われて来ない。特に障害児について言えば、6例の児死亡を救おうと頑張れば頑張るほど、障害児の1という数は増えて行くのである。救済しようとした児をすべて正常児産の枠に送り込もうとするのだがその中間の状態で障害児として生き残るものが出てくる。そうした症例も993例の正常児枠の中にあったものから1の障害児枠に送り込んだものととらえ、医師の責任とする。確かに医師のミスによるものもあるだろう。しかし懸命の努力の結果、不可避的に起きたものの方がはるかに多い。この両者の区別なくして、とにかく分娩障害児に金を払おうとする制度は到底容認出来ないのである。
現在、我が国の医師賠償保険の約半額を産婦人科医が使っている。分娩障害児に当てる額がその多くを占める。全体から見て、正当な賠償保険のあり方ではない。これは何が悪いか。産婦人科医が悪い。産婦人科医の腕が悪かったのか。そうではない。産婦人科医の腕の良し悪しは他科の医師と変わる訳がない。悪の根源は産婦人科医が戦わなかったことにある。自分に落ち度が無いと思ってもいても訴えられれば、向こうの言いなりになって金を払って来た為である。そのつけが回って来たのである。
そんな状況の中で考え出された苦肉の策がこの「無過失補償制度」であろう。この制度が実施されれば医師、患者間の不信の溝を埋める大きな第一歩となると期待しているようだが、果たしてそううまく行くだろうか。制度の概要は医師に過失の有る無しにかかわらず分娩障害児に保証金を出す。但し先天異常や未熟児であったものはその適用外とする。資金は医師と国が半々、国に年間60億円の予算計上を求める。
財源の出どころも問題だが、一番の問題は医師に過失が有るか無いかを不問にした点、そして保障を受ける資格が先天性のものは除き、後天的というか分娩がきっかけになった障害児のみと限定された点である。これは声を上げて抗議するものには金を出し、声も上げられないもっと弱者は切り捨てにするのだとみなされる。保障を受けられるものと受けられないものの間に軋轢が生じるのは必然である。更に保障を受けたものも、正式に裁判したより少ない額ではないかと考えるようになると、一時的に訴訟は減少するだろうが、金で黙らされたという不満が鬱積し、後になって集団で新たな闘争を起こしかねない。医師に過失が有ったか無かったか、それを明確にすることが患者にとっても必要なのである。金を支払ったということは非を認めたと認識される。
故武見太郎日本医師会会長が昭和47年作成された「医療事故の法的処理に関する報告書」を引用する。
①医療事故が発生した場合は、厳格な審査により、医師の責任ありと判断されれば、速やかに、賠償の責めに任ずる
②医師として過失がないのに不可避的に生ずる重大な被害に対しては、国家的規模で損失補償制度を創設しこれに対する救済を図ること
③現行裁判制度と別個に国家機構としての紛争処理機構の設立
①の厳格な審査により過失の有無を判断するとした点が最も重要だと思われる。責任があると判断されれば速やかに賠償責任を負う。しかし責任が無いと判断されれば、あとは国にまかす②。その場合、医師は不当な金銭の要求には断じて応じてはならない。武見氏の理念にこの「無過失補償制度」は反していると思われる。また国が出す保証金の寡多については医師は口を出す立場にない。
医師は自らに責任があると判断すればその責を受け、責任が無い時は断固身の潔白を晴らさなくてはならない。
そして不幸にして負の遺産を持って産まれた子は国と親だけに任すのではなく、その子をとりまく社会全体が惻隠の情を持ってその子に接する。古来日本の土壌にはその精神があったはずだ。いまそれを取り戻すことが肝要である。これは金で解決できる問題ではない。
最後に武見氏の“③現行裁判制度と別個に国家機構としての紛争処理機構の設立”について考えて見たい。この提案のごとく司法と別個の学問的臨床的見識に基づいた強力な事故検証機関の設立が必要と思われる。
国家規模によるか学会医師会規模によるかは問わない。現在医師会の維持紛争対策委員会が本当の意味で機能しているとは思えない。機能していると言うなら世界最高水準の日本の産科医療がこの国の医師賠償保険の半額を使っているという現実をどう考えているのか。もっと強力な機関が必要である。あるいは維持紛争対策委員会がもっと強くなるか。今の裁判の最終的な判定は鑑定に持ち込まれる。医療裁判では鑑定医がその裁判判定を左右する。ならば始めからその鑑定医の能力のあるものが事故検証機関において調査にあたればいい。
そして裁判にならない事例でも事故検証機関が医師に責ありと判断したら、受け取る受け取らないは別にして患者側に「これは医師に責任があると判断されました。あなた方はこれだけの金額を受け取る権利があります」とこちらから申し出る。そこまでやってやっと医師と患者間の信頼が回復して来るのではないかと思うのである。
妊婦死亡をめぐって、業務上過失致死と医師法第21条違反で医師が逮捕拘留されたという事件が報道され論議を醸しています。妊婦死亡はどのような場合に届出が必要なのか考えてみたいと思います。今回は外科領域のものは議論の対象からはずし、妊婦死亡のみに限定して話を進めて行きます。
妊婦死亡は1万分娩に1例程度の割合で起こっており、これは1000分娩に6件の児死亡、1000分娩に1件の障害児に比べてもきわめて稀な出来事といえます。しかし稀だからこそ、それに遭遇した時の対処を自分なりに確立しておく事が肝要と思われます。
医学的処理は悪性腫瘍等の死亡と同じ対応でいいと思いますが、妊婦死亡を異状死と認識して警察に届けるか否かということが問題になります。
異状死の定義は外科学会と法医学会でその解釈が異なり、現場で混乱が起きているのが現状です。
医師法第21条の条文は以下のとおりです。“医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届けなければならない”
これが異状死を届けなさいと言う条文ですが、“異状死”という用語の定義が曖昧で、届出側の主観で判断されることが多々あります。これをいかに客観的に扱うことが出来るかが課題となってきます。
以下に外科学会、法医学会、両者の主張を示します。
Ⅰ、外科学会
異状死とは犯罪性があると推測されるもの。医療行為の後の死亡は犯罪性は疑われない。よって疾患が原因での死は警察への届けは必要ない。医療過誤か否かはその後専門的な検討を行って初めて明らかになるものであって死亡した時点での警察への届け出の対象とはならない。疾患の治療として行われた行為による死は異状死の定義に入らない。
この考え方は明治39年医師法が制定されたときその9条に「異常」と「異状」との違いはありますが現代の21条とほとんど同様の条文が置かれたことに端を発しています。全ての死体は医師が検案し死亡を確認する。その時死体に“異常”を見つければ警察に通報する。死体に変性がおきない24時間以内とした。4ヶ月以上の死胎児もヒトとしての権利をもった生命体であったとして同様に扱った。ここには医療過誤による死という概念はありません。医師の治療の結果亡くなったものに犯罪性は考えられなかったからです。
Ⅱ、法医学会
法医学会が提唱した異状死の定義
【1】外因による死亡(診療の有無,診療の期間を問わない)
(1)不慮の事故
A.交通事故
運転者,同乗者,歩行者を問わず,交通機関(自動車のみならず自転車,鉄道,船舶などあらゆる種類のものを含む)による事故に起因した死亡.自過失,単独事故など,事故の態様を問わない.
B.転倒,転落
同一平面上での転倒,階段・ステップ・建物からの転落などに起因した死亡.
C.溺水
海洋,河川,湖沼,池,プール,浴槽,水たまりなど,溺水の場所は問わない.
D.火災・火焔などによる障害
火災による死亡(火傷・一酸化炭素中毒・気道熱傷あるいはこれらの競合など,死亡が火災に起因したものすべて),火陥・高熱物質との接触による火傷・熱傷などによる死亡.
E.窒息
頸部や胸部の圧迫,気道閉塞,気道内異物,酸素の欠乏などによる窒息死.
F.中毒
毒物,薬物などの服用,注射,接触などに起因した死亡.
G.異常環境
異常な温度環境への曝露(熱射病,凍死).日射病,潜函病など.
H.感電・落雷
作業中の感電死,漏電による感電死,落雷による死亡など.
I.その他の災害
上記に分類されない不慮の事故によるすべての外因死.
(2)自殺
死亡者自身の意志と行為にもとづく死亡.
縊頸、高所からの飛降,電車への飛込,刃器・鈍器による自傷,入水,服毒など.
自殺の手段方法を問わない.
(3)他殺
加害者に殺意があったか否かにかかわらず,他人によって加えられた傷害に起因する死亡 すべてを含む.
絞・扼頸、鼻口部の閉塞,刃器・鈍器による傷害,放火による焼死,毒殺など.
加害の手段方法を問わない.
4)不慮の事故,自殺,他殺のいずれであるか死亡に至った原因が不詳の外因死
手段方法を問わない.
【2】外因による傷害の続発症、あるいは後遺障害による死亡
例)頭部外傷や眠剤中毒などに続発した気管支肺炎
バラコート中毒に続発した間質性肺炎・肺線維症
外傷,中毒、熱傷に続発した敗血症・急性腎不全・多臓器不全
破傷風、骨折に伴う脂肪塞栓症など
【3】上記【1】または【2】の疑いがあるもの
外因と死亡との間に少しでも因果関係の疑いのあるもの.
外因と死亡との因果関係が明らかでないもの.
【4】診療行為に関連した予期しない死亡、およびその疑いがあるもの
(1)注射・麻酔・手術・検査・分娩などあらゆる診療行為中,または診療行為 の比較的直後における予期しない死亡.
(2)診療行為自体が関与している可能性のある死亡.
(3)診療行為中または比較的直後の急死で,死因が不明の場合.
(4)診療行為の過誤や過失の有無を問わない.
【5】死因が明らかでない死亡
(1)死体として発見された場合.
(2)一見健康に生活していたひとの予期しない急死.
(3)初診患者が,受診後ごく短時間で死因となる傷病が診断できないまま死亡した場合.
(4)医療機関への受診歴があっても,その疾病により死亡したとは診断できない場合.
場合(最終診療後24時間以内の死亡であっても、診断されている疾病により死亡したとは診断できない場合).
(5)その他、死因が不明な場合.
以上が法医学会が提唱した異状死の定義です。法医学会の方が客観性には優れています。しかしすべての外科手術に適用出来るかという点で疑問が残ります。
では妊産婦死亡はどうすればいいでしょう。
これを外科学会の定義で行くと、妊婦の死亡は医学的説明が付けば届け出の必要はない。もし犯罪性が疑われれば届ける。そうでなければ届けなくてよい。
対して法医学会の定義で行くと“注射・麻酔・手術・検査・分娩などあらゆる診療行為中,または診療行為の比較的直後における予期しない死亡”と明記されていますから分娩中、分娩直後に死亡したのは異状死の定義に入ります。
通常お産で死ぬとは予期していませんから。
ここでどちらが正しいか議論するつもりはありません。この決着が付くにはまだまだ時間が掛かるでしょう。決着が付くのを待っていられない。現実問題として実際に妊婦の死亡を24時間以内に届けなかったとして捜査、逮捕、拘留という事件が起こっているのです。
法医学会は妊婦死亡は全例届けろ。外科学会は病死ということがはっきりしている場合は届ける必要はない。と言っています。さてどうしましょう。
判断に迷いますが、死体を見たとき、一方の解釈では異状死でない、一方の解釈では異状死であるという症例は、届けるしかないと思います。両方の解釈とも異状死でないとされるものは届けないとする。
結論は妊産婦死亡に限っては言えばこれを見たらすべて警察に届ける。思案している暇はないのです。24時間しかありませんから。
児死亡と医師法第21条
児死亡について触れておきます。法医学会の異状死の定義、“分娩などあらゆる診療行為中,または診療行為の比較的直後における予期しない死亡”とは母体のことを指しているのであって胎児の死は含まれてないとみていいでしょう。
生産か死産かは自然現象の中で起こる確率の問題であって、法医学が関知することは少ない。特別犯罪性の疑われる嬰児の死体を検案したときのみ届けるのでいいと思われます。
憲法第38条と医師法第21条
外科学会の考え方の基本は“犯罪は届ける”です。その疑いのあるものも届ける。そこで医師に責任がかかってくる業務上過失致死というものを考えてみます。
業務上過失致死というのは法的な意味で犯罪です。刑法上、業務上過失致死罪という罪名になります。自動車事故を例にとってみます。自動車の運転は危険を伴います。通常以上の注意を払わなくてはならない。注意を怠って車で人を死亡させたのは犯罪となる。医療行為も危険を伴います。一般人が不注意で人を死なせたのではかからない業務上過失致死罪が医療行為中の医師には科せられている。死体を検案したとき、他のはっきりした原因でなく自分の業務上過失致死罪の疑いがあるとして出届け出をしたら、これは犯罪を自白、あるいは自分の行為が犯罪の可能性があると告白することになります。一方で憲法第38条“何人も、自己に不利益な供述を強要されない”という権利の保障があります。この憲法上の保護から業務上過失致死罪の嫌疑をかけられるおそれのある医師に届出は強制出来ない、つまり届ける必要はないという解釈が出されました。
しかしこの解釈は最高裁で退けられました。広尾病院の事件です。憲法第38条をもって医師法第21条を免除することは出来ない。医師は自分が罪に問われようがいまいが異状死の届出をしなくてはならない。法廷では外科の言い分は通っていません。異状死の定義も法医学会のものを採用している。そういう裁定は出ましたが憲法第38条自体が生きていることは事実です。医師は本当に憲法38条に守られていないのか。今後も議論が続くでしょう。
では具体的にどうすればいいか。憲法第38条を擁護しつつ医師法第21条も守る。そのような試みをしてみました。以下は山口大学法医学教授藤宮龍也先生の協力を得て作成した妊婦異状死体届けです。
文中に自分は医療過誤と認識していないと明記されています。この届けは業務上過失致死罪の自白ではない。これで憲法38条は満足されました。更に現実に異状死体は警察に届けた。これで医師法第21条も満足させている。
届けた目的は犯罪捜査の為でなく死因究明の為の「行政(公費)承諾解剖」の要請である、と目的意識もはっきりさせました。
これは産婦人科医会山口県支部のホームページからもダウンロード出来るようにしてあります。
24時間以内の届け出ですので文章である必要はありません。ただFAXで送信される方が正確に伝わると思い上記書面作成しました。ご利用下さい。
日医ニュースに「医制局長通知により保助看護問題が解決」という記事が掲載された。いわゆる内診問題の解決ということだが、実際は何も解決していない。この通知は看護協会側から見れば看護師の内診を認めないとしたととれ、産科医側から見れば看護師の内診を認めたととれる表現で、何の問題の解決にもなっていない。
では法自体は一体どう言っているのか、原点に戻って考えてみたい。
お断りしておくがこの問題を産科開業医と助産師達との利権争いという眼で捉えないで頂きたい。法理論の上で何が正しいか、そしてこの国の産科医療の目指すものは何かという視点で考えて頂きたいのである。
以下に現行法を示す。
3条と30条は対になって助産師の業を規定している。5条と31条は看護師のそれを、6条と32条は准看護師のそれを表すものである。更に31条においては助産師に看護師の業を為すことが出来ると定めている。
これから行くと看護師は自らの判断で行う看護と医師の指示の基で行う医療の補助を行う事ができる。准看護師は看護と医療の補助を行うことができるが、看護については自らの判断で行うものではない。助産師は助産と看護と医療の補助を行う事ができる。
一般常識として浸透している助産師の医療業務の中での位置づけは以下のようになっていると考える。
ⅰ、助産師は助産行為ができる。
ⅱ、助産行為は医療である。
ⅲ、助産師はある限定した医療を行うことの出来る職種である。
ⅳ、医療業務としての役割分担は助産師と看護師では明確な差がある。
私はこの一般常識に異論を唱えるものです。
まずⅱの"助産行為は医療である"は正しい表現だろうか?
果たして助産師は医療行為を行う事が出来るのか?
といった疑問がこの常識に対して沸く。
上段に提示した法からは"助産師がおこなう助産行為は医療である"という法説明が導き出せないのである。
保健師助産師看護師法第3条と30条で助産が規定されている。これからは、
"助産師の行っている助産"は"看護"と同様、医療ではない。
これは医療の枠外、医師法の外で行われている業務である。
本題に入る前に助産という用語の明確な定義をしよう。助産は2元性に定義しなければ解決つかない。つまり保健師助産師看護師法下における助産と医師法下における助産の2つである。
①、1つは保健師助産師看護師法下における助産。これは医療ではない。これは助産師があつかう。
② あとの1つは医師法下における助産。これは医療である。これは医師があつかう。正常分娩であっても医療機関であつかえばこれは医療である。医療でなければ医師がこれをあつかうことが出来ない。疾患でもないものへの処置を医療と定義できるか。出来る。これは予防医療とみなすことができる。正常な分娩の経過を傍で見守り、異常が起き次第すみやかに処置を行う。最後まで異常が起きなかった場合でもこれは医療である。
助産を2元性に定義した。では、
医師、看護師、准看護師、助産師、4者の業務分担は以下のようになる。
ここでは医療でもない、医療の補助でもない、助産でもない業務も存在する。それは看護という業である。看護は法的に医療業務から独立する。看護師は自ら看護計画を立て、医師はこれに介入しない。看護師単独の判断で行うのである。
医療業務に限定して考えると医療業務は医師の行う医療と看護師、准看護師、助産師の行う医療の補助の2種で成り立っている(黒太枠)。助産師のあつかう助産は医療以外のところに位置する。医師の指示下で行う"医療の補助"は看護師、准看護師、助産師の3者の間で法的差は無い。3者同等である。
以上が現行法から導き出される4者の業務分担である。
厚生労働省医政局看護科および看護協会は助産師の行う助産も医療であると錯覚した。助産師の行う助産も医療であるなら、医師法 第17条 医師でなければ、医業をなしてはならないという法と対立する。医師法下以外の医療行為を例外的に認めるという解釈はいかなる法令からも導き出せないのである。
これはむしろ次のような法解釈となる。
ⅰ、医療機関内における助産は医療と定義される。
ⅱ、医師でない助産師は"医療と定義された助産"をあつかうことは出来ない。
ⅲ、医療機関内で助産師がこれに参加するには医師の指示の下、医療の補助としての行為しかない。つまり医療機関内では助産師は看護師なのである。
医政局長の言う、医師、助産師、看護師等の3通りの役割分担とはならない。医療機関内においては医師と看護師等の2種である。ここでの"看護師等"とは看護師、准看護師、助産師間の3者を指す。医療機関内で医療の補助を行うこの3者の履行可能業務に法的差はない。助産師にやらせてよいことは看護師にやらせてもよい。看護師にやらせていけないことは助産師にやらせてもいけない。やらせていい事といけない事の違いはその行為が医療であるか、医療の補助であるかにより決まる。医療行為となるならやらせてはいけないし、医療の補助であればやらせてよい。
医師、助産師、看護師、准看護師の4通りの役割分担とは医療機関以外の場所を含めての考え方となる。医師法下でない助産をも含めれば医師、助産師、看護師、准看護師の4区別が存在する。というより"医師法下でない助産"つまり保健師助産師看護師下での助産には医師も看護師准看護師も参加出来ない。医師法下にないこの場所では看護師は助産の補助という行為を行うことは出来ない。同様、医師もこれに介入できない。ここは助産師単独の判断で行うのである。
看護師は医療機関にあってこそ助産に参加できる。助産を医師法下にある助産か保健師助産師看護師下にある助産かに区別しなければ、分娩における医師、助産師、看護師、准看護師の役割分担を明示することは不可能である。
この2つを区別しないで助産という用語を一括して定義をしようとしたところに医政局看護科の法解釈での無理が生じたと言っても過言ではない。
まとめ2分類の助産:
①保健師助産師看護師法下における助産:これは助産師単独であつかう。この場所での助産の補助が出来る看護師准看護師は存在しない。
②医師法下での助産:医療行為は医師が行い、医療の補助は看護師准看護師助産師が行う。医師法下では"医療"か"医療の補助"かの2種の業務分担しかない。
ここで先般医政局長が出した通知を見てみる。
医政局長通知
この通知の内容は既存法を繰り返しているだけに過ぎない。問題となった看護師の内診については何も言及していない。"その役割分担を守れ"という語句からは一方にとっては内診を禁じたと取れ、もう一方からは内診を許したと取れる。医政局長も今回のこの看護師内診問題では腐心されたのだとは思うが、結局この通知の前半で言っているのは、「1」"医師、助産師、看護師の役割分担を守れ"。そして後半では、産科医療において助産師数の絶対数が不足していることが今回の騒動の原因であるから「2」"各都道府県は助産師の育成に努めよ"である。
「1」の“医師、助産師、看護師の役割分担を守れ”はその場所を医療機関外に置くか医療機関内に置くかで法的扱いがまったく別のものになって来る。先も述べたが医療機関外、つまり保健師助産師看護師法下の助産では助産師と看護師の役割は完全に異なる。看護師はこの助産に補助の手を出すことすら出来ない。対して医師法下の助産では看護師は医療の補助者としてこの助産に参加出来る。医師法下では助産師も医師の指示の下、医療の補助者としてこの分娩に参加する。助産師であっても医師の管理下に置かれる。ここにおいて助産師と看護師間に業務の差は起きない。医師法下の助産では医師による医療と看護師、准看護師、助産師による医療の補助の2種の役割分担は守られている。
となると「2」の助産師数の絶対数を増やせという政策も意味が無くなって来る。
結論:一例の出産がきわめて重要となり、高度な産科医療の要請と失敗が許されないものになってきている現代、この国の出産はすべて医師の管理下に置くべきである。助産師を完全に医師の指揮下に置く体制が必至であり、そうしなくてはこの国の産科医療レベルが保てない。
全ての分娩を医師法下に置くとなると、必然的に保健師助産師看護師法下での分娩は皆無となる。その場合助産師という法的身分は不要となる。無医村離島においても教育を受けた看護師を置き、モニターをリアルタイムで都内にいる医師が見ていればこれは医師法下にある。情報力と患者輸送の機動力があれば救急医療体制は可能である。助産師養成より看護大学出で卒後教育を実戦的な産科医の基で身に付けた者を育てるべきであろう。
しっかり未来を見据え、文部科学省厚生労働省を巻き込んだ産科医療スタッフ養成構想の再構築を図っていく必要がある。
看護師に産科医療の手伝いをさせた事が違法だとして、助産師不在の産科医療機関に警察の捜査が入るという事件が頻発し、分娩を廃止する産婦人科医院が続出している。一方、今後、分娩施設の浮沈は助産師をどれだけ確保できたかによって決まるという考え方から、生き残りをかけた産科医療機関は助産師の確保に躍起になっている。
この現象は、将来のこの国の産科医療を良い方向に向かわすだろうか。
産科医療に看護師を介入させる事が違法か違法でないか、その論旨は別の雑誌で述べた。紙面が足りないのでここでは医師と看護師で行う産科医療は法的に問題ないという前提の基に話をすすめる。
産科医のパートナーを助産師のみだけでなく広く看護師全体から採用するべきである。そのことで、より優秀な人材を確保できる。特に、看護大学出の人材が産科医療現場の核となって活躍してくれることが望まれる。助産師の国家資格は医師がいない場所(医療現場以外)での助産に有用なだけである。今後そのような分娩が多くあるとは思えない。医師の指示下で高度な産科医療の助手を務める事のできる、真に実力のある人材の養成が急務である。この国の助産師の数は2万5千人。対して看護師の数は120万人。この多い分母の中から優れた人材を産科医療現場に取り込まなければならない。
法律問題はさておき、真に優秀な人材の確保に取り組まないと、20年30年先の産科医療現場は、他科に遅れを取ってしまうことは必至である。
医師法21条は悪法か。医師法21条がある為、我々医師は本来、警察の捜査など必要としない患者の死を警察に届けなくてはならない。届けられた警察は警察の性質上、捜査を開始しなくてはならなくなる。この死は犯罪に関連するか否かと。業務上過失致死も犯罪である。刑法上の犯罪にあたる。そこで業務上過失致死が成立するか否か医学知識の無い者が調べることになってしまう。煩わしいかぎりである。
医師は常日頃、患者の死と隣り合っている。予期せぬ死も往々にしてある。これらを届けるとすべて捜査の対象となる。それは医師にとって苦痛で煩わしい。その煩わしい業務上過失致死罪が課せられることを申告せよと医師法21条は言っている。これは憲法38条違反ではないか。憲法38条「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」に医師法21条は抵触する。明治時代この法が作られたときには医師の業務上過失致死罪という概念は無かったのだ。現代においては医師法21条を書き換えるべきであるという動きが出てきた。私もこの21条は書き換えなくてはならないと思っていた。医師法21条と憲法38条は同時に両者は成り立たない。現在の医師は医師法21条がある為、日本国民なら罪人でも補償されている憲法38条に護られていない。
ところが先日ある最高裁判決を目にした。衝撃的な判決文であった。それは医師法21条は憲法違反であるとする訴えに対し、医師法21条は憲法違反ではないとする判断を下した判決であった。衝撃を受けたのは私の望む判決を最高裁が出さなかったからではない。その逆で、最高裁の下した判決文の理論構成に感動したのである。今までの悩みが吹っ切れ、霧が晴れ何もかもすっきり見えて来た。判決文はこう言う、「本件届出義務は、医師が、死体を検案して死因等に異状があると認めたときは、そのことを警察署に届け出るものであって、これにより、届出人と死体とのかかわり等、犯罪行為を構成する事項の供述までも強制されるものではない」また「医師法21条にいう死体の『検案』とは,医師が死因等を判定するために死体の外表を検査することをいい,当該死体が自己の診療していた患者のものであるか否かを問わない」とある。